阿部ブログ

日々思うこと

京都ニュートロニクス社に行く途中“島原”をかすめ通る

2013年08月26日 | 雑感
京都駅に着いて時間がないから直ちに「京都高度技術研究所」に向かう。最寄りの駅は山陰本線の丹波口。京都駅の隣駅だが、電車には乗らない。しかしながら時間がないからといってタクシーに乗るわけでもない。京都駅から歩いて行く。
何故か? それは研究所に行く途中に「島原」があるからだ。時間があれば嘗めるように見て廻りたいが今回は無理。しかしかすめ通る事ぐらいは出来るだろう、と言うことで蒸し暑い中七条通りをテクテク歩く~でも自転車に注意!
                            
西本願寺の脇を通り過ぎ、JRの高架下を右折して五条通りに向かう。因みにココを左折すると蒸気機関車館がある。ココにも行きたいのは山々だが、次回におあずけ。

京都の調査研究特殊機器開発会社『HOGA』も七条通りに面した七条壬生川東入ル北側。

さてJR山陰本線の高架下の通りは千本通りと言い、丁度左側には京都の中央卸市場が七条通りから五条通りまで延々と続く。この通りの右側を見ながら歩いて行くと途中に島原住吉神社が現れる。この場所は、島原西門のあった所で、島原伝統保存会の説明版がある。それと近くには島原の碑と住吉神社の碑などもあるので、これを速やかに激写する。しかし住吉神社にはお参りせず通り過ぎるが、社殿は撮影しない。畏れ多いからだ。
          
さあ、次来たときは必ず島原大門を激写するぞーっ。
ここで時計を確認するとやっぱり遅刻だ。しょうがないので五条通りに出るのを諦め、中央市場を横断して新千本通りに出て、研究所敷地に到着。脇から進入する形となったが約12分遅れでの到着となった。

この京都高度技術研究所は、元々関西ガスのガスタンクがあったとのこと。しかしズーッと過去に遡るとこの周辺は地名にもあるが、千本と言う言葉が使われている。研究所を出ると五条通りに出るが、これをJR丹波口駅までちょいと歩くと交差点がある、ここは五条千本。五条通りと先程通ってきた千本通りが交わるところなので何という事はないのだが、京都ニュートロニクスの亀井社長は語る。応仁の乱の時、このあたりには首千本が並んだのだ~。

島原の話に戻る。
京都には、昔、上七軒、祗園甲部、祗園東、先斗町、宮川町、それと島原の花街が存在し「六花街」と称されていた。「六花街」は京都の文化の一翼を担ってきた重要な場であったのだ。しかし今は島原が抜けて五花街となっている。しかし京の島原が一番有名だし、現在でも往時を偲ばせる雰囲気が感じられると言う。
島原伝統保存会の説明版にある通り島原は、足利義満の時代に起こり、豊臣秀吉が公認した日本で最初の「廓」と言われている。よく巷間で言われる日本三大遊郭の一つに挙げられる存在となった。京の島原、江戸の吉原、大阪の新町だ。江戸時代の戯れ言には「京島原の太夫に、江戸吉原の張り持たせ、長崎丸山の衣装着せ、大阪新町の揚屋にて遊びたし」と巷で言われていた。この島原は最初、万里小路二条あたりにあったようだが、京都御所に近いので六条三筋町に移り、その後、日本中が島原の乱でテンヤワンヤの混乱の時期(寛永14年(1637))に、今の朱雀野に移ったのだという。

有名な輪違屋さんもココ島原にある。伊藤博文の寵愛を受けた「維新の名花」桜木太夫は、輪違屋の所属。所属とは変だがいらっしゃった。彼女は、朝鮮のオズワルド・安重根にハルピンで狙撃され死亡すると出家して尼になったと言う。それと浅田次郎の『輪違屋糸里 上』の舞台となったのも題名の通り輪違屋。ベストセラーとなった『壬生義士伝 [DVD]』の続編で、女新撰組の物語と言う内容で、土方歳三に思いを寄せる芸妓・糸里を中心とした物語。
そう芸妓。糸里は芸妓なのだ。吉原では娼妓と言うが、これは己の体を売るのが商売。島原の芸妓は芸を売る。娼妓と芸妓では天と地も違う。吉原も島原も太夫と呼ばれる傾城の最高位があるが、島原の太夫は舞踏は勿論、茶の湯、華道、和歌など、玄人はだしの芸を身につけていた教養人なのだ。此のあたり、くれぐれも誤解のないように。
最後に島原では、入口を出口と言い、どう(堂)もないのに堂筋と言う~上へ行くのを下之町、下へ行くのを上之町。語りもせんのに太夫さん。