新刊紹介「原発社会からの離脱」 著者 宮台真司 飯田哲也
「まえがき」から引用。
■福島第一原発事故に関する議論には、技術的不合理に関するものとは別に、社会的不合理に関するものがあり得る。
説明しよう。何が技術的に合理的かについて合意できたとしても事柄の半分にしかならない。
なぜならこの日本社会は、技術的に合理的だと分かっていることを社会的に採用できないことで知られるからだ。
その意味で「(今でも)原発をやめられない日本社会」にこそ問題がある。そう。先の敗戦から引き継がれた問題だ。
机上模擬演習では負けることが自明だった日米開戦を、なぜやめられなかったのか。
■この問題を僕は〈悪い共同体〉と、それに結合した〈悪い心の習慣〉と呼んできた。
社会変動期には、国家の命運をかけてプラットフォームを変更しようとする政治家と、命がけでプラットフォームに固執する行政官僚の、血みどろの争いが展開する。
政治家一人が見渡せる領域が限られてくる社会的複雑性の増したグローバル化状況では、政治家の行政官僚依存が不可避になるので、この戦いでは行政官僚が勝利しがちなのだ。
だがウェーバーやアガンペンが見通したこうしたユニバーサルな傾向とは別に、日本的条件がある。
■先の敗戦に関する山本七平『空気の研究』をはじめとする数々の傑出した「失敗の研究」が明らかにしてきたように、
行政官僚(先の大戦では軍官僚)の暴走を政治家が止められない理由として、「今さらやめられない」「空気に抗えない」といった言葉に象徴される独特の
〈悪い共同体〉の〈悪い心の習慣〉があるのである。
問題は先の大戦から間違いなく引き継がれている。原発政策の背後にも〈悪い共同体〉の〈悪い心の習慣〉が存在する。
これを意識化できない限り、どんなに政策的合理性を議論しても、稔りはない。
■既にお分かりだろうが、〈悪い共同体〉の〈悪い心の習慣〉の逆機能は、盲目的依存に集約される。
行政官僚制への依存であり、市場への依存であり、マスコミへの依存であり、政府発表への依存である。
総じて「〈システム〉への盲目的依存」と呼べるだろう。かかる盲目的依存を、「空気」への依存や、「みんな」への依存が、強力に後押しする。
その結果、もはや機能不全が明らかな制度や仕組や政策が、思考停止状態で推進され続ける。その姿はあたかも「ブレーキの壊れたタンクローリー」の如きである。恐ろしい。 ~~~ ■グローバル化した高度技術社会では、盲目的な過剰依存はなおさら問題だ。震災で想定外が云々されるが、
チェルノブイリ事故の同年に出た社会学者ベック『危険社会』によれば、想定外の際、事態を収拾可能か否かが問題だ。
ギネス級堤防があって全滅した所もあれば、低い堤防しかないのに「想定に囚われず、全力で逃げろ」の教えでほぼ全員助かる所もあった。
「絶対安全な」原発にせよ堤防にせよ〈システム〉過剰依存が〈システム〉崩壊の際に地獄を来す。
なのに「もっと高い堤防を」「もっと安全な原発を」は愚昧だ。
■防災に限られない。欧州では共同体が〈市場〉や〈国家〉などの〈システム〉に過剰依存する危険を共通認識とする。
だからスローフードや自然エネルギーが普及した。日本はグローバル化で〈市場〉と〈国家〉が回らなくなって以降、自殺・孤独死・高齢者所在不明・乳幼児虐待放置が噴出した。
〈システム〉過剰依存による共同体空洞化が原因だ。震災でも支援物資や義援金を配れない状態が続いた。
行政は平時を前提とするから非常時に期待できない。反省すべきは共同体自治の脆弱さだ。復興は共同体自治に向かうべきだ。
■食とエネルギーが手掛りになる。欧州では、福祉国家政策失敗を機にスローフード化=食の共同体自治が進み、
チェルノブイリ原発事故を機に自然エネルギー化=エネルギーの共同体自治が進んだ。
〈システム〉機能不全の際の安全保障になり、経済発展も生む。特定の電力会社からしか電気を買えないのは変で、
電力会社も電源種も自家発電も選べるのが先進国標準だ。共同体自治による復興には産業構造改革・税制改革・霞が関改革が必須だ。
株式時価総額1兆円超の自然エネルギー企業が世界に4社あるが日本企業は圏外だ。
■かかる改革に加え、価値観も見直す必要がある。日本のGDPは世界3位だが幸福度は75位以下。エネルギーや物に頼らなくても幸せに溢れた社会がある。
そう。僕について言えば学問の〈最終目的〉が問われている。〈システム〉依存を加速するだけの学問か。共同体の自立に必要な知識社会に貢献する学問か。
日本は前者に偏り、しっぺ返しを食った。
宗教が生活に根付いた社会では、便利や快適よりも幸せを、そして幸せよりも入替不能性に関わる尊厳を大切にできる。日本には乏しい。
尊厳には自治と自立が必要条件である。 ~~~
■講談社から震災を機に新書を書けとの御依頼をいただいた。僕は即座に飯田哲也氏との共著ならば引き受けると返答申し上げた。
飯田氏とは以前からインターネット番組(マル激トーク・オンデマンド)などで何度もご一緒させていただいてきたが、
氏は、技術的非合理性(技術に関わる政策的非合理性)の問題に通暁されつつ、元々原子力ムラにおられたがゆえに原子力政策遂行に関わる社会的非合理性にも通暁しておられる唯一の方だ。
■僕と同じ1959年生まれの飯田氏は、京都大学原子核工学専攻から原子力ムラを経て、今は自然エネルギー政策の国際的な専門家として世界中で活躍しておられる。
原子力と各種自然エネルギーをリスク面・コスト面・温暖化面・産業振興面・社会政策面など総ゆる側面で比較してこられ、『北欧のエネルギーデモクラシー』の主著もある。
だが本書ではそうした従来の議論とは別に、人々の動きの非合理性に焦点を当てて深く議論していただいた。他所では知ることができない氏の少年時代の話なども、僕には大きな衝撃だった。
■僕は飯田氏と知り合いであることが以前から誇らしかった。だが彼の名を知らない人が多すぎることに憤慨してきた。とりわけ震災直後にはその思いを深くした。
共著相手に即座に氏の名前を挙げたのは当然すぎる。
だが、震災の不幸中の数少ない幸いというべきか、本書の企画を持ち込まれてから一ヶ月、飯田氏は日本で最も有名な知識人の一人になられた。
震災後、原子力エネルギーとその他のエネルギーについて、技術的合理性や政策的合理性をあらゆる面で比較して議論できる方が、氏一人しかおられなかったからだ。
■復興が単なる復旧なら、依存の盲目的反復で日本は沈む。歴史を振り返ると大災害は爾後を2つに分ける。
従来の権益まみれの〈システム〉におさらばして飛躍する社会。権益まみれの復旧をめざして沈没する社会。飛躍するにせよ沈没するにせよ、
大災害は当該社会の歴史的推転を速める。飛躍できるとすれば、それは氏が大活躍する社会になり得た場合だけだ。
ちなみに氏は上関原発に隣接する祝島で、自然エネルギー百%を旗印にした共同体自治を実践中だ。こうした試みがどれだけ拡がるかが、日本の今後を決めるだろう。
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