長年 フアンだった小沢昭一さんが亡くなった。寂しい。click☟
小沢昭一の「わた史発掘 戦争を知っている子供たち」を読んでいます。 - 阿智胡地亭のShot日乗
「道楽と仕事」について。小沢昭一の「道楽三昧―遊びつづけて八十年」を読んだ - 阿智胡地亭のShot日乗
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小沢昭一 Wikipediaから引用 画像引用元。
来歴・人物
小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は
日本の俳優、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢変哲。劇団「しゃぼん玉座」主宰。見世物学会顧問。
東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の京王線代田橋付近)生まれ[1]。
父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。
昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。
「当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その独特の雰囲気がのちの小沢の後の活動に影響を与えた。
旧制麻布中学を経て海軍兵学校第78期生として1945年4月に入校(第703分隊)するが、終戦の為に退校。早稲田大学文学部仏文科卒。
麻布中学の門をたたく前は、府立一中受験で失敗しているが、口頭試問の控え室で水晶の標本を面白半分で頭にのせて割ってしまったためだと自嘲気味に述べている[2]。
同中学時代から、演芸評論家・作家である正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西信行、加藤武らとは正岡門下の兄弟弟子の関係。
さらに、大西信行、加藤武らと演劇部を立ち上げた。
また、フランキー堺、仲谷昇とも同級だった。早大在学中にはやはり、大西信行、加藤武らと共に、日本で初めての学校での落語研究会
(厳密には、名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした)を創設する。
1949年、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台をふむ。
1960年には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年に解散)。
以降、舞台、ラジオ、映画、テレビなどで芸能活動を行う。1966年のNHKのラジオドラマ「ゆびぶえ」など優れた作品を残している。
映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、1954年に映画デビュー。今村が、日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。
ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。
川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、わき役ながらその存在感を示した。
その後、今村の『エロ事師たちより・人類学入門』で主役を務め、1966年「キネマ旬報」の主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。
しかしながら、小沢は川島雄三に傾倒するところがあり、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年連載)では、
川島監督に演技開眼してもらったと述べている。
なお、プログラム・ピクチャーにも多数出演しているが、怪しいなまりの言葉を話す「中国人役」などが多かった。
個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。
1973年には、現在も続く人気番組、TBSラジオの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』を放送開始。
また、1969年、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと落語好きだったこともあり、
「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。
また、この年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行った。
その流れで、放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述を行うようになる。1971年には全国を廻って収集した音源を元に制作した
レコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。
続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。
また他にも、古くからの芸能の研究活動のため、1975年から研究誌「季刊藝能東西」を創刊・編集。
またその雑誌を刊行する出版社「あたらしい芸能研究室」も創立。
「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を刊行し、2001年まで出版社として活動した(現在は「しゃぼん玉座」の付属機関として小沢関係のCD等を企画)。
また、小沢自身も、伝統芸能や、ストリップなどの猥雑な芸能を、取材・研究した本を、刊行し続けることになる。
また、その「芸能史研究の実践活動」として、1975年から1980年まで劇団「芸能座」を主宰。
1982年には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、現在も活動を行っている。
「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年から18年間続け、公演660回を数えた。
他に野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった
(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。
小沢はまた、俳人でもあり、「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。
句集など俳句関連の出版物もある。
父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村の村長も務めている。
1994年に紫綬褒章、1999年に坪内逍遥大賞、2001年に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年に東京都功労者。
2004年に早稲田大学芸術功労者。2005年に朝日賞。元放送大学客員教授。2008年したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。
☆日本の滅びゆく大道芸を、重いテープレコーダーを持って日本各地に探索・記録した。この人はそれらをまとめて文献や映画、ビデオに残している。
日本の大衆あるいは民衆芸能史の恩人という一面を持っている。
添田唖蝉坊・金々節 / 土取利行(唄・演奏)
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Wikipediaから引用☟
『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は、1973年(昭和48年)1月8日に開始した小沢昭一のモノローグ冠番組。長寿番組の一つ。
テレコムサウンズ(現・TBSプロネックス)の制作で、TBSラジオをキーステーションに、JRN加盟各局で平日にネットされ、放送時間は全国各地で異なる。
概要 [編集]『森繁の重役読本』(1962年(昭和37年)3月~1969年(昭和44年)4月)の後継番組として企画された[3]。
小沢が“口演”と称し、週代わりのテーマ(「○○について考える」)に沿って、軽妙な話術で物語る。扱うテーマは時事問題から下ネタまで幅広く、永年の固定ファンが多い。
2011年(平成23年)5月13日に放送10,000回を迎えた。毎週月曜日に翌週分の収録が行われていた。
「宮坂さん」なる架空の人物が、概ねストーリーの主人公を務める[4]。番組初期には「昭和ヒトケタ」の働き盛り、かつ悲哀漂うサラリーマンの設定[5]が多かった宮坂さんも、
小沢が年輪を重ねるに従い「宮坂お父さん」「宮坂薬局店長の宮坂さん」等、第一線から退いた事を伺わせる表現が用いられるようになった。
坂本勝正プロデューサーを揶揄した「能天気プロデューサー」、宮坂さん行きつけのバーの「れいこママ」と「詩人のヒモ(タロウ)」、子供「とおる」「ななえ」等、
固有名詞を持つ脇役も登場するが、宮坂夫人は「奥方」或いは「お前」で特に名は無かったが、2010年(平成22年)5月19日放送分で夫の宮坂さんに「アリコ」とよばれ、
ナレーションで「有子(ユウコ)」という名前であることが明かされた。ナレーションも含め、これら全員を小沢が独演する。
猛妻の尻に敷かれ子供らに疎んじられる「中年男の悲哀」を基本に、「愚痴を交え、斜に構えた蘊蓄を世事に傾ける」
「落ちと言った落ちが無い(その都度テーマを変え、次回に期待を抱かせつつ延々と続く)」路線は、前身の『森繁の重役読本』からそっくり承継されたものであった[3]。
◎小沢昭一さんは、映画「幕末太陽伝」の予告編にはわずかしか顔を見せないが、
昭和32年制作のこの映画(シネマ旬報・歴代日本映画第4位)の頃から、芸達者な俳優として知られていた。
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