4月の終わりに京都に桜を見に行った際、奈良県橿原神宮前まで足を伸ばして駅から徒歩一時間の飛鳥寺に行き、そこで濃密な一日の午後を過ごしました。
中学社会(地理歴史)の勉強の仕方について、「ただ暗記するだけでしょ」などと大きなお門違いというか、ゲスな言い方をすれば「あんたの子はその『ただの暗記』が出来ないんだろ!」と言いたくなるような舐めた言い方をする人がいます。
敢えて言いますが、本心からそう思っているなら塾なんか来させずひたすら自分の家で練習にこれ努めさせてろと。
学習塾であるなら一定のやり方で子供たちにものの覚え方を伝授するのは当たり前ですが、でもそれは機械的にスイッチを押して3分待てば出来上がり、なんていうような安直なものではありません。
暗記というならそれでも構いませんが、そうして頭に格納した正確な情報を基に、実際にはグラフや表を正しく読み込んで、例えば過去から現在に至るモノの生産高の推移を読み取り計算して白地図上の正しいところに指示条件に沿って書き込んだり、そうした推移を辿ることになった原因を正しい日本語で著したり、或いは今後の推移を予測して、そこで生じるであろう問題点を書き出して、尚且つそれらの改善策を論じさせたりといった、かなり高度で複雑な対応の仕方が要求されもします。
暗記は必要です。しかしそれで総てが済むものでは決してなく、それらはいわば最低限必要なことに過ぎません。
それすら他人に丸投げして、挙句に「ただの暗記でしょ」などと「それって罵倒?」と思うような言い放ちはさてさてどんなものでしょうか?
日常会話程度なら、私は英語を話せます。特定の目的に沿った内容でなら、少々難解な会話も可能です。
以前、仕事の必要でしばらくそういう環境下にいたときに、一気に会話力が増したように思います。何かの本で、英語の場合、ある時期から急に上のレベルに上がった感覚が生じることがよくあると書いてあったのを読んだことがあります。そんな感じです。
中学の英語の授業やテストで求められるのはまだまだこうした会話力ではない文法上の知識ですので、その点少し趣が違いますが、でも私の場合、中学の時に習い覚えた知識が今も十分役に立っていることを思うと、勉強の仕方ということにおいて、これはこれで大切なプロセスなんだなと思います。
これは極めて個人的な思い込みの可能性大ですが、小中学生の科目の好き嫌い、或いは相性は、第一に就学前からの保護者の子供に対する接し方、もっと言えば指導の仕方とその中身、次に低学年時の学校の教師、特に担任の同じく接し方と指導のありかたによるところが大きい。
私は非常にワガママな性格の子供で、小一から高校生に至るまで常に教師たちからそのような評価を受けてきましたが、全員ではなかったものの、多くの教師たちがプロ意識に徹した素晴らしい人格者だったので、彼らの巧みな指導によって、こと勉強の取り組み方に関しては、そうしたマイナスの要素を比較的うまく封印することが出来て、多くの科目でまずまず及第という線を維持することができました(勉強面以外、例えば生活態度などはからきしでしたが)。
そして、この性格的にハチャメチャなだった私の就学前以降の個性をカタチ作るのに大いに影響した両親も、やはり勉強面についてだけは今思い返しても比較的的を射た指導をしてくれたとは思います。
特にスペース面における配慮と整備にそれを思います。私の子供時代は家が経済的に苦しい時で家が小さく狭かったので、それもあって私はもっぱら外遊びに精を出していたのですが、母親は色々と工夫を凝らして一日の中の一定の時間、一定の空間を勉強に集中できるように図ってくれることを忘れず、おかげで私はその間だけはいつも安心して本を読んだり文を書いたり計算したり学校の宿題をしたり出来ました。母親は私同様大変にワガママで気分屋の、まことに扱いにくい人でしたが、彼女は彼女なりにそのとき時に精一杯出来ることをしようと努力してくれていたのが、子供の時は分かりませんが、その母が亡くなった後になって少しずつあれもこれもと思い出します。
ワガママついでに付け加えさせてもらえば、そうしたことの上に、更に科目の好き嫌いの平準化にも一工夫加えてくれていたら(←好き勝手なことを言っているのは承知)、きっともう少し数学も出来るようになっただろうなと。
最後までわかりませんねえ
何が何でもここで点ですねえ
TVKでベイスターズ戦を見ています。
上のようなコメント、プロのコメンテーターとして恥ずかしくないのでしょうか。
最後までわかりませんねえ→当たり前じゃないか!
何が何でもここで点ですねえ→おいおい、何も起こらずあっけなく三者凡退ですぜ。
こういうバカ丸出しのゴタクが私は大嫌いです。
昨日の続き。
で、話は転じ、子供たちが勉強しないと言って嘆いて見せるお母さん、怒って見せるお父さんがたまにいますが、正直な感想を言わせてもらえば、彼らの事情を聞くにつけ「子供が勉強しないのもある意味当たり前だわな」という思いもあります。
例えば、まずもって、環境の面においてとてもとてもそんな状況とは言えないケースのいかに多いことか。
居住スペースの問題(部屋がないとか狭いとか)を言い立てる人もいますが、そんなものは理由になりません。努力と工夫でなんとでもなります。
思うに(自分自身のこどもじだいを思い出して)、子供の勉強意欲に繋がるような仕掛けやきっかけを親の方で提供或いは確保してあげる(しかもこれを常時継続的に)ことはとても意味のあることです。
子供が宿題をやろうとしているそのそばで寝転びながらテレビのお笑い番組などで親がアホな笑い声をあげたり、できないなりに努力している(←本人はそう思っている)そのプライドなんか1ミリほどにも考えず「オレは昔出来ていた」なんてしょうもない、今さら確認もしょうのない駄法螺ばかり吹いて自ら子供のやる気を削いで「ちっとも勉強しない」などと嘆いて見せたり怒って見せても、そんなものは何の意味すらありません。
昨日「形から入る」と書きました。
子供に勉強させたいのら、最初に親がすべきは「そのための形をまずは整える」ことが絶体に大切です。
私(マスターK)は昔一時期保険会社に勤務していたことがあります。そこでは専ら法人財務営業の分野の仕事をしていましたが、仕事の面白さと裏腹に、上からの社風の押し付けにいつも息がつまりそうでした(私は基本あくまで自由主義者、別の言い方をすれば強度のワガママ)。
特に「我々は社会のエリートなんだ。それに相応しい外見を保て。大切なことは『形から』だ」と言われて、やれ夏のワイシャツの腕捲りはみっともないからダメだ、ネクタイをぶらぶらさせてはいかん、いつもしっかりピンで固定しろ、スーツの色は紺かグレー、紐のない革靴は禁止。
そんなことを言われる度に「うるせえや」と反発ばかり。
今朝のJRの駅で、頭はモヒカンにチョンマゲ、耳に大きなリング、辺りを威圧するような目付きの、いかにも「私はこらんの通りのバカです」といったふぜいの20代風男がいました。
そいつが、到着した電車のドアが開くやいなや、わ~い、すわろすわろと、見ようによってはあたふたどたばたと席の確保に走って、そして一ヶ所に空きを見つけて腰をおろすや「どーだすごいだろ」といったいかにもなドヤ顔。モヒカンにチョンマゲ、耳にリングのサルみたいな風体とこの行動様式とが、「形から入る」のバカバージョンの典型なのかも、と、昔の言葉を変形して思いだした瞬間でした。
マスターKです。私は昨年春まで教室に常駐しておりましたが、その後今に至るまで三ツ境とは別の拠点に専らおります。
ですが、まだ未定且つ流動的ですが、また元の形に復活する可能性があります。また英語や社会中心に直接教えられる日が来ると良いと思っております。
前回「良くない口癖」について書きました。質問を頂きました。「具体的にどのような場面を想定した話でしょう」と。
難しいものではありません。
上司先輩など、学習塾においては講師などの立場のものが下のもの、或いは教えや指導を必要とする者に対してそれを行う際、それらの立場の者(塾であれば生徒)が相手にそうされる(指導や教えを受けること)が当然の権利であるという前提で実際に指導や教えを受ける場面において、ある程度以上の強権を伴って言われる場合です。
そもそも論ですが「この前言ったでしょ」と言われても、当人にしてみれば、その「この前言った」と相手が言う内容の理解がこちらとしては不十分であったこと、物事には往々にしてこうしたことがあるのだということを寧ろ教える側が十分に踏まえておくべきだと思うのです。
良くない口癖というものがあります。これは学習塾の講師という仕事に限ったことではありませんご、二言目には「この前言ったでしょ」とか「もう何度も説明していますよね」などと、いかにもいかにもエラソーにいう人。
自分はもう言うことは言った、何度も言わせるな、的なものの言い方には、これが通常の会話の時には大人の態度でやり過ごしますが、授業では子供たちはそうそう大人の態度など出来ません。何しろまだ子供なんですから。
中学三年の公民授業で、衆院と参院の選挙制度の違いがもたらす国民の利益のひとつに「多様な意見を選挙によって明らかにできる」というのがあります。
それぞれの院の任期の違いや投票制度の違いが国民の多用や意見の反映に役立つということですが、さてさて本日の衆院補選の自民党全敗を稀代の厚かましさ全開岸田はどう受け止めるのでしょうか。
私自身は長いこと自民党支持ではありましたが、この岸田という馬鹿者にはかつてのミンス党菅直人と同じ腐った悪臭しか感じられず、とっとと消えてなくなれとしか考えることはなく、子供たちにしたり顔で教えている「国民の多様な意見の反映」の一日も早い実現を祈るばかりです。
テストで良い点数を取ったり入試合格を目指して猛勉強する時は、大抵誰でも過去問解析を行って傾向把握と対策を練るという作業をするものです。
それは生徒だけではなく、例えば我々だって一緒です。私(マスターK)自身もこれまで何度それをしてきたでしょうか。あまりに多すぎてもうその回数や量も覚えてなどいません。
時には「次はこうしたイレギュラーな設問もあり得るだろう」という、後になって振り返れば不思議な感覚さえ伴うインスピレーションが沸いて出ることもあります。
個人的にはこうした過去問解析の上で行う対策というものが必ずしも良い学習法とは思いませんが(←こればかりしていると人間が小さくなる)、場所と機会(時間)さえ適切であれば効果の点ではかなりの有効性がここにはあります。
京都はもう何十回行ったでしょうか。
初めて行ったのが中学の修学旅行。大学生になり、社会人になってからも、本当に数え切れない位京都詣でをしました。京都といえば誰でも思い浮かべ、実際に行くであろう有名どころの寺社仏閣等ははじめの何度かのうちに概ね周りました。
それからは、名も知らない町の細い通りを歩いてそこに住む人達の息遣いを感じてみたり、反対に堀川通りの広い通りの端に佇んで目をとじて50年前60年前の様子をイメージしてみたりと、ややオタクっぽい楽しみ方に移行しました。そうすることで見えてくるものがあります。感じられるものが確実にあります。
京都市内をまわってみるには徒歩が一番です。地図など片手に歩いてまわれば、京都ならではの 難しくて複雑に 思える地名の関係も よくわかります。
歩くのに少し疲れたら、町のあちこちに点在する個性溢れる喫茶店に入って窓際なんかに腰をおろして頭のなかも少し整理します。こじつけでなく言いますが、こうした「途中途中の整理目的の小休止」は、効率的な勉強に大いに役立ちますよ。
ちなみに、以前のこうした店の気に入りは、荒神口にあったシアンクレールや、そのすぐ近くにあったリバーバンクでしたが、残念なことにどちらの店もなくなってしまいました。
三条大橋の近くの「ろくよう」は嬉しいことに今でも元気に営業してくれており、たまに寄った時にはコーヒーと名物のドーナツなどを楽しみます。
丸太町通を西に向かい、堀川通を渡ってもう少し歩くと、歩道に面して立つ「かめだ」という店も好きです。土日火しか開いていませんが、ひらひらと蝶が舞うような感じの美人マスターの入れてくれるコーヒーを飲めば、歩き疲れた足も蘇った気がして、その後そこからの散策にも気力充実です。