【社説・11.30】:32軍壕県史跡指定 沖縄戦実相伝える拠点に
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説・11.30】:32軍壕県史跡指定 沖縄戦実相伝える拠点に
沖縄戦の実相を伝える上で最重要な戦争遺跡の保存・公開への貴重な一歩となる。
沖縄戦当時、首里城一帯の地下に構築された日本軍の陣地壕・第32軍司令部壕が県指定史跡となった。戦争関連の県史跡は1897年に石垣市で造られた「海底電線陸揚室跡」があるが、沖縄戦関連では初めてである。
司令部壕は1960年代に那覇市などが調査し、90年代にも大田昌秀県政が公開方針を打ち出している。壕内は経年劣化が進んでおり、保存・公開は時間との勝負だ。
県は首里金城町側の坑道を2025年度に、守礼門近くの坑道を26年度に公開を予定する。沖縄戦体験に基づく平和創造・発信の拠点となろう。調査の継続による司令部壕の全容解明と公開に向けた安全対策に努めてほしい。
南西諸島防衛を担う第32軍は1944年12月上旬から司令部壕の構築を始めた。構築には当時の首里市民や沖縄師範学校男子部の生徒らが動員された。45年3月から32軍中枢をはじめ軍人・軍属が司令部壕内に入り、5月末に本島南部に撤退するまでの約3カ月間使用した。
沖縄戦を語り継ぐ上で司令部壕が不可欠なのは、一般県民の犠牲につながる作戦を指揮した地であるからだ。
「本土決戦」を準備するための時間を稼ぐ「戦略持久戦」として沖縄戦は戦われた。戦闘を長引かせる作戦方針は県民犠牲を増大させた。特に45年5月末、戦闘継続のために県民が避難していた本島南部への撤退を決めたことは決定的だった。軍民混在の極限状態を招き、多くの県民が命を落としたのである。
司令部壕は日本軍の県民蔑視・差別の発信源という側面も持つ。司令部壕の規定に関する文書に標準語以外の使用を禁じ、沖縄語によって会話した者を「間諜」(スパイ)と見なして処分するという定めがある。この方針は壕内だけでなく戦場に残された一般県民にも適用され、スパイ視虐殺の悲劇を生んだ。
「軍隊は住民を守らない」ことが沖縄戦の実相であり、最大の教訓である。第32軍司令部壕は、沖縄戦の実相を現代に伝える「負の遺跡」と位置付けることができよう。県はそのことを最重視しなければならない。
壕の公開作業と並行して「何をどう伝えるか」という情報発信の在り方を検討する必要がある。司令部壕に関する資料や証言収集に加え、戦争体験者に代わって司令部壕の史実を伝えるガイドなどの人材育成が求められる。
沖縄の島々で自衛隊増強が加速する中で、戦前の日本軍と自衛隊の連続性を強調するような動きが起きている。沖縄戦の実相を隠蔽(いんぺい)したり、ゆがめたりするような言説が横行する恐れもある。
司令部壕公開は、この風潮に歯止めをかけるものにすべきだ。沖縄県の平和行政の真価が問われている。
元稿:琉球新報社 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2024年11月30日 04:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます