これが不時着? 機体真っ二つ 沖縄名護東沿岸のオスプレイ事故 - 琉球新報 https://t.co/BxcNiP6PwU">https://t.co/BxcNiP6PwU> これが墜落でなければ一体何なんだ?これでは、撤退を転進、集団自決を玉砕と言って誤魔化した戦時中の大本営発表と同じじゃないか!(呆・怒)
— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) https://twitter.com/afghan_iraq_nk1/status/810090216576942080">2016年12月17日
放射能拡散でしかない除染で福島復興とか。どっから見ても内戦でしかない南スーダン情勢をあくまで自衛隊派兵ありきで衝突と言い張り。沖縄のオスプレイ墜落も、機体が真っ二つに割れ原型を留めないのに不時着と報道。もはや戦時中の大本営発表と変わらない。これでもまだ日本は民主国家と言えるのか?
— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) https://twitter.com/afghan_iraq_nk1/status/810212293157888000">2016年12月17日
沖縄のオスプレイ墜落事故は決して他人事ではない。現に沖縄では1959年に宮森小学校に米軍機が墜落し児童・教師や周辺住民が多数死傷。2004年にも米軍機が沖縄国際大学に墜落。本土でも1977年に横浜の住宅地に米軍機が墜落し母子が死亡。 https://t.co/FMCWrRtumK">https://t.co/FMCWrRtumK
— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) https://twitter.com/afghan_iraq_nk1/status/810217886971138048">2016年12月17日
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">沖縄米軍トップ「感謝されるべき」 オスプレイ事故、抗議に反発(沖縄タイムス) <a href="https://t.co/zx1wwqxyTf">https://t.co/zx1wwqxyTf</a> <a href="https://twitter.com/theokinawatimes">@theokinawatimes</a>さんから こんな発言を容認するなら、北朝鮮拉致さえも、ISではなくまだ北朝鮮の犯行だった事に感謝しなければならなくなるなw</p>— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) <a href="https://twitter.com/afghan_iraq_nk1/status/810245818364100609">2016年12月17日</a></blockquote>
オスプレイが不時着水 2人けが 沖縄・名護東方沖(沖縄朝日新聞)
海上保安庁によると、13日午後9時50分ごろ、米軍の垂直離着陸機オスプレイが不時着水した、と米軍嘉手納基地から第11管区海上保安本部(那覇市)に連絡があった。11管や防衛省によると、不時着水したのは午後9時半ごろで、場所は同県名護市の東海岸付近の浅瀬。乗員5人は救出され、うち2人はけがをしているという。
11管によると、出動したヘリが名護市安部(あぶ)付近のリーフ(岩礁)上に機体があるのを確認した。乗員は米軍のヘリがつり上げて救助したという。米海兵隊によると、このオスプレイは当時、米軍キャンプ・シュワブ(同県名護市、宜野座村)沖の浅瀬に着陸を試みていたという。
オスプレイをめぐっては、米軍が2012年10月以降、米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の老朽化した旧式機に代えて順次24機を配備。一方、沖縄県は「安全性に不安がある」と反発し、12年9月には配備反対の県民大会に10万1千人(主催者発表)が集まった。
同県うるま市の浜比嘉島にあるホテルの男性従業員(60)によると、13日午後10時前、東の沖合に赤色灯を回した船舶1隻を見たという。「オスプレイは多い時で日に2、3回飛ぶ。低空飛行なので、落ちたと聞いても驚きはない」と話した。
http://www.asahi.com/articles/ASJDF7WWJJDFTIPE03Z.html
名護市長「数秒の差で集落に墜落」 沖縄防衛局に抗議へ(琉球新報)
【名護】米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが13日夜、名護市安部の沿岸部で墜落したことを受け、名護市の稲嶺進市長は14日、記者団に対し「恐れていたことが現実のものになった」と述べ、市辺野古に計画される新基地に同機が配備された時には「危険度が増すのは火を見るより明らかだ。市民が安心して眠れず、日常生活ができない状況におかれてしまう」と話した。
一番近い陸地から現場まで約50メートルの距離であることを示しながら「数秒の差で集落に墜落していたかもしれない。巻き添えがなかったのは不幸中の幸いだった」と、大惨事の一歩手前だったことを指摘。「オスプレイが欠陥機ということを今回の事故が証明している」と、各地で続く同型機の事故に警鐘を鳴らした。
墜落した機体の状態から「大破している。『不時着』『着水』といった表現は事故の大きさを矮小(わいしょう)化している」と政府の対応を批判した。
稲嶺市長は14日、沖縄防衛局へ「すぐにでも抗議に行く」として調整している。【琉球新報電子版】
http://ryukyushimpo.jp/news/entry-411573.html
沖縄米軍トップ「感謝されるべき」 オスプレイ事故、抗議に反発(沖縄タイムス・プラス)
米海兵隊のオスプレイが沖縄県名護市安部(あぶ)の海岸に墜落したことを受け、安慶田光男副知事は14日、在沖米軍トップのローレンス・ニコルソン四軍調整官と米軍キャンプ瑞慶覧で面会し、強く抗議した。安慶田副知事によると、ニコルソン四軍調整官は「県民や住宅に被害を与えなかったことは感謝されるべきだ」と主張。声を荒らげ、机をたたくなど県の抗議に反発したという。
面会は午後1時半から約30分間、非公開で行われた。安慶田副知事は、機体が大破した状況から米軍側が発表した「不時着水」ではなく墜落だとして、オスプレイの即時飛行中止と配備撤回を求めた。ニコルソン四軍調整官は県の抗議に怒りを示し、「政治問題にするのか」「抗議書にパイロットへの気遣いがあってもいいのではないか」などと迫ったという。
安慶田副知事は「植民地意識が丸出しだ」と指摘。「抗議されること自体に怒りをあらわにした。とんでもない感覚だ。オスプレイも、オスプレイの訓練も要らない。(配備を)撤回する以外、解決はない」と強調した。事故に対し、米軍側から謝罪はなかったという。
沖縄県宮森小学校ジェット機墜落事故の概要(宮森630会HPより)
1959年6月30日午前10時40分頃、カデナ基地所属のF100ジェット戦闘機(ジョン・シュミッツ機長)が離陸後時速463キロ、高度約300 メートルに達した時、エンジン火災と危険を知らせる警告ランプが点灯。搭載していた25ポンド爆弾四発を南西の海に投棄し、カデナ基地に引き返そうとしたがエンジンが爆発したのでパイロットは脱出し、機体は石川市6区5班・8班(現うるま市石川松島区)に墜落し、その衝撃で撥ね上がり、付近の家々を引きず るようにしながら北西の方向約150m先、2時間目が終了した後のミルク給食中の宮森小学校に激突、炎上しました。
この事故により、宮森小学校の生徒が11名(後に後遺症で1名が2歳で死亡)、地域住民が6名死亡しました。重軽傷者も220名に達し、住宅27戸、公民館1棟、校舎3教室を全焼。住宅8戸、校舎2教室を半焼させる大惨事となりました。
当初、事故はエンジントラブルであり、不可抗力であったと説明されました。
(夏空の雷が思いがけない落雷したようなもので、手のつけようがなかったことを、特に察知してほしい - 空軍司令官スミス少将 1959年7月3日 琉球新報)
ところが、事故から40年後にQAB(琉球朝日放送)によって、不可抗力の事故ではなくて、エンジントラブル以前の「整備不良」が原因だったことが米軍資料で明らかにされました。爆弾を四発も搭載していることも県民には隠されていたのです。
http://ishikawamiyamori630kai.cloud-line.com/gaiyou/
横浜米軍機墜落事件の経緯(ウィキペディアのページより)
1977年9月27日13時過ぎ、厚木海軍飛行場(厚木基地)を離陸し、太平洋上の航空母艦・ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。乗員2名は機外に緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地したのち、海上自衛隊厚木救難飛行隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した。一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、周辺の家屋20戸を炎上・全半壊させた。
アメリカ軍機が炎上し墜落して行く状況や、脱出してパラシュートで降下するパイロットの様は、墜落現場から西方約2 kmに所在する横浜市立鉄小学校でちょうど開催されていた運動会の観客により8mmフィルムで偶然に撮影された。その映像はTBSのニュースライブラリーに残っており、後年「カメラがとらえた決定的瞬間」として紹介されている。
事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊のS-62J救難ヘリコプターは、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で、基地に帰還した。これとは別に40名ほどの陸上救難隊が編成され事故現場へ向かう準備をしていたが、事故現場が基地から約18kmと離れていたこと、上記の通り消防などによる救難活動が開始されていたことから結局出動しなかった。
アメリカ軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた。
墜落地周辺では火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により次々に車で病院に搬送されるもうち三歳と一歳の男児2名の兄弟は全身火傷により翌日死亡した。また兄弟の母親である女性も全身にやけどを負い、皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返したのち一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの精神的なダメージは計り知れず、最終的には精神科単科病院に転院し、事故から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。NHKの加賀美幸子アナウンサーは、涙ながらにこのニュースを伝えた。我が子に会いたい一心で懸命にリハビリに励む母親に2人の子供は事故翌日に死亡したことは伝えられず、真実を知らされたのは事故から一年三ヶ月後であった。
転院に関して、遺族は「半ば強制的」であったと主張している。
被害者女性の名をつけた「カズエ」というバラが園芸品種名として登録されている。