この前、元祖・猫カフェの喫茶店に立ち寄った時の事です。其処のお店のママが、地元で活動している「見守り隊」の所業について、大変怒っていました。
「見守り隊」と言うのは、他にも「住民パトロール隊」とかの通称で呼ばれている、PTAや町内会などの地域住民有志で作られている防犯パトロール隊の事です。最近、スーパーの駐輪場などで、「見守り隊」などと書かれたステッカーを前カゴなどに張ってある自転車が止められているのを、時々目にする事が多くなりましたが、それがその「見守り隊」です。
午前中に通学路に立って交通誘導をしたり、放課後は子どもに声をかける不審者がいないかどうか見回っている、そういう人たちの事です。警察庁のHPには、「自主防犯ボランティア」として、全国各地の事例が掲載されています。
以上の知識はあるものの、「見守り隊」の実際の活動については、私もそれ以上の事は分からず、ただ漠然と「緑のおばさん」に近いイメージを持っていたのですが、猫カフェのママさんの話を聞くと、さに在らず。実際は、そんな牧歌的なものではない様です。
くだんの喫茶店の前の道は、店の前が丁度交差点になっており、信号と横断歩道があります。其処は通学路にもなっており、毎朝「見守り隊」の人がお立ちになるのですが、ママが言うには、その態度が余りにも横柄なのです。
曰く、交差点の角の縁すれすれに立って、我が物顔に其処を占拠し、通行人が通ろうとしても、決して自分からは避けない、との事。交通量もそこそこはある道なので、通行の邪魔になるからと、店の朝のモーニング・セットを食べに来た客が、見るに見かねて注意すると、逆に睨みつけられたり、とか。
その所為で、客は険悪な表情で店に入ってくるわで、商売も上ったりで、「これでは営業妨害だわ」と、ママは相当お冠な口ぶりでした。
実際、それで喫茶店の客とトラブルになり、近くの交番に通報された事もあるそうです。それで通報された警官こそ、いい迷惑です。一応駆けつけては来たものの、民事不介入の建前もあるので、「見守り隊」をなだめすかすのに苦労していたのだとか。
私、その話を聞いて、「まるで警察官気取りで、戦前のオイコラ警官と全く同じ目線で活動している」「見守り隊と、名称こそソフトなものの、実際にやっている事はまるで市民監視そのものじゃないか」と思いました。
そもそも、見守りや見回り、地域巡視は、一体何の為にするのでしょうか。「地域で困っている人は無いかどうかをこの目で見て、困っている人が在ればみんなで助ける」と言うのが、これらの活動の本来の姿ではないのでしょうか。それが相互扶助というものの、本来の在り方ではないでしょうか。そうすればこそ、独居老人の孤独死や生活困窮者の餓死といった事も無くなるでしょうし、オレオレ詐欺や訪問販売を装った悪徳セールスマンも撃退出来て、犯罪の抑止にも繋がろうというものを。
ところが、話を聞いていると、そういう「民生委員」的な活動ではなく、逆に独居老人や生活困窮者を、取締り対象として囲い込んでいく様な、「自警団」的な活動に、ひたすらのめり込んでいっている様な気がしてなりません。そんな「不審者狩り」の行き着く先は、自分以外は誰も信じられず、互いに「隣の人は何する人ぞ」と疑心暗鬼ばかりが先走る、ギスギスした世の中ではないでしょうか。そこまで行くともう、もはや「地域社会」でも「市民社会」でもない、ただの「監視社会」でしかありません。
しかも、そんな「自警団」活動に現を抜かしている町内会の実態たるや、古くからの保守系の有力者連中が、他に対抗馬が出てこないのをいい事に、選挙の洗礼も受けずにずっと世話役に居座ったまま、三桁を超える世帯から集めた年間3600円の町内会費を、自分たち取り巻きだけが参加する慰安旅行などの遊興費に費やしているだけだというのですから、開いた口が塞がりません。
これでは、飲み食いに明け暮れている自分をさて置いて、「たらたら食って飲んでいる奴に何で俺の税金が使われなければならないのか」と言い放った、どこかの国のアホー首相と、全く同じではないですか。
そんな金があるのなら、相互扶助の精神に則った「言葉通りの、本来の見守り隊」活動に、もっと注力すべきではないでしょうか。自分たちと言えども、いつ生活困窮に陥るかも知れないのですから。
以下、数年前の新聞記事ですが、山陰中央新報というローカル紙から引用します。
>米国の郊外に多い「ゲーティッド・コミュニティー」と呼ばれる高級住宅街は、あらゆる「敵」を排除した究極の小社会だろう。そこでは、不審者の侵入を防ぐため外周を柵や塀で囲い込み、出入りの門には警備会社の警備員が不審者をチェックする。許可無き「よそ者」の入れない犯罪の無菌室のような街。だが、これが私たちの求める「安心なまち」なのだろうか。
>私たちは空気中に病原菌があるからとて呼吸をせずにはいられない。犯罪予防や捜査のために市民のプライバシーや通信の秘密の権利を犠牲にすることは、空気中から病原菌と一緒に酸素を取り除くようなものだ。犯罪の無菌室作りよりも、まずは病原菌への免疫力を高める方策を考えたい。犯罪増加の背景にある格差社会の是正は、この免疫力を高めることにつながる。
>この文脈では、暮らしの「安心」すなわち「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した憲法二五条の描く「安心」こそが重視されるだろう。しかし現在の政治は、治安強化だけで「安心」を求める一方、社会保障費等の削減により実は「安心」を切り崩しているのである。('06/01/31付 「憲法から見た安全・安心(下) 監視社会より格差是正を」)
http://albatross.soc.shimane-u.ac.jp/src/news/scs44.htm
上記記事の趣旨が本当に活かせていたら、昨年の秋葉原無差別殺傷事件も、昨年末からの「派遣切り」被解雇者大量流出も、起きる可能性は大幅に減少していた事でしょう。たかが一ローカル紙のコラム記事ではありますが、犯罪容疑者本人やその家族へのバッシングばかりに終始し、犯罪の社会的背景については一切見ようとしない、右翼御用新聞・産経のイエローペーパー記事よりも、こちらの方がよっぽど読み応えがあります。
「見守り隊」と言うのは、他にも「住民パトロール隊」とかの通称で呼ばれている、PTAや町内会などの地域住民有志で作られている防犯パトロール隊の事です。最近、スーパーの駐輪場などで、「見守り隊」などと書かれたステッカーを前カゴなどに張ってある自転車が止められているのを、時々目にする事が多くなりましたが、それがその「見守り隊」です。
午前中に通学路に立って交通誘導をしたり、放課後は子どもに声をかける不審者がいないかどうか見回っている、そういう人たちの事です。警察庁のHPには、「自主防犯ボランティア」として、全国各地の事例が掲載されています。
以上の知識はあるものの、「見守り隊」の実際の活動については、私もそれ以上の事は分からず、ただ漠然と「緑のおばさん」に近いイメージを持っていたのですが、猫カフェのママさんの話を聞くと、さに在らず。実際は、そんな牧歌的なものではない様です。
くだんの喫茶店の前の道は、店の前が丁度交差点になっており、信号と横断歩道があります。其処は通学路にもなっており、毎朝「見守り隊」の人がお立ちになるのですが、ママが言うには、その態度が余りにも横柄なのです。
曰く、交差点の角の縁すれすれに立って、我が物顔に其処を占拠し、通行人が通ろうとしても、決して自分からは避けない、との事。交通量もそこそこはある道なので、通行の邪魔になるからと、店の朝のモーニング・セットを食べに来た客が、見るに見かねて注意すると、逆に睨みつけられたり、とか。
その所為で、客は険悪な表情で店に入ってくるわで、商売も上ったりで、「これでは営業妨害だわ」と、ママは相当お冠な口ぶりでした。
実際、それで喫茶店の客とトラブルになり、近くの交番に通報された事もあるそうです。それで通報された警官こそ、いい迷惑です。一応駆けつけては来たものの、民事不介入の建前もあるので、「見守り隊」をなだめすかすのに苦労していたのだとか。
私、その話を聞いて、「まるで警察官気取りで、戦前のオイコラ警官と全く同じ目線で活動している」「見守り隊と、名称こそソフトなものの、実際にやっている事はまるで市民監視そのものじゃないか」と思いました。
そもそも、見守りや見回り、地域巡視は、一体何の為にするのでしょうか。「地域で困っている人は無いかどうかをこの目で見て、困っている人が在ればみんなで助ける」と言うのが、これらの活動の本来の姿ではないのでしょうか。それが相互扶助というものの、本来の在り方ではないでしょうか。そうすればこそ、独居老人の孤独死や生活困窮者の餓死といった事も無くなるでしょうし、オレオレ詐欺や訪問販売を装った悪徳セールスマンも撃退出来て、犯罪の抑止にも繋がろうというものを。
ところが、話を聞いていると、そういう「民生委員」的な活動ではなく、逆に独居老人や生活困窮者を、取締り対象として囲い込んでいく様な、「自警団」的な活動に、ひたすらのめり込んでいっている様な気がしてなりません。そんな「不審者狩り」の行き着く先は、自分以外は誰も信じられず、互いに「隣の人は何する人ぞ」と疑心暗鬼ばかりが先走る、ギスギスした世の中ではないでしょうか。そこまで行くともう、もはや「地域社会」でも「市民社会」でもない、ただの「監視社会」でしかありません。
しかも、そんな「自警団」活動に現を抜かしている町内会の実態たるや、古くからの保守系の有力者連中が、他に対抗馬が出てこないのをいい事に、選挙の洗礼も受けずにずっと世話役に居座ったまま、三桁を超える世帯から集めた年間3600円の町内会費を、自分たち取り巻きだけが参加する慰安旅行などの遊興費に費やしているだけだというのですから、開いた口が塞がりません。
これでは、飲み食いに明け暮れている自分をさて置いて、「たらたら食って飲んでいる奴に何で俺の税金が使われなければならないのか」と言い放った、どこかの国のアホー首相と、全く同じではないですか。
そんな金があるのなら、相互扶助の精神に則った「言葉通りの、本来の見守り隊」活動に、もっと注力すべきではないでしょうか。自分たちと言えども、いつ生活困窮に陥るかも知れないのですから。
以下、数年前の新聞記事ですが、山陰中央新報というローカル紙から引用します。
>米国の郊外に多い「ゲーティッド・コミュニティー」と呼ばれる高級住宅街は、あらゆる「敵」を排除した究極の小社会だろう。そこでは、不審者の侵入を防ぐため外周を柵や塀で囲い込み、出入りの門には警備会社の警備員が不審者をチェックする。許可無き「よそ者」の入れない犯罪の無菌室のような街。だが、これが私たちの求める「安心なまち」なのだろうか。
>私たちは空気中に病原菌があるからとて呼吸をせずにはいられない。犯罪予防や捜査のために市民のプライバシーや通信の秘密の権利を犠牲にすることは、空気中から病原菌と一緒に酸素を取り除くようなものだ。犯罪の無菌室作りよりも、まずは病原菌への免疫力を高める方策を考えたい。犯罪増加の背景にある格差社会の是正は、この免疫力を高めることにつながる。
>この文脈では、暮らしの「安心」すなわち「健康で文化的な最低限度の生活」を保障した憲法二五条の描く「安心」こそが重視されるだろう。しかし現在の政治は、治安強化だけで「安心」を求める一方、社会保障費等の削減により実は「安心」を切り崩しているのである。('06/01/31付 「憲法から見た安全・安心(下) 監視社会より格差是正を」)
http://albatross.soc.shimane-u.ac.jp/src/news/scs44.htm
上記記事の趣旨が本当に活かせていたら、昨年の秋葉原無差別殺傷事件も、昨年末からの「派遣切り」被解雇者大量流出も、起きる可能性は大幅に減少していた事でしょう。たかが一ローカル紙のコラム記事ではありますが、犯罪容疑者本人やその家族へのバッシングばかりに終始し、犯罪の社会的背景については一切見ようとしない、右翼御用新聞・産経のイエローペーパー記事よりも、こちらの方がよっぽど読み応えがあります。
有名な被害者は清水由貴子さんと言われています。
やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視
3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
全国で展開されている防犯パトロール(民間団体などによる通称「安全安心パトロール」)は、ニュースで報道されている聞こえのいい内容とは裏腹に、特定個人を尾行し監視するなど悪辣な法律逸脱行動に及んでおり、憲法違反を含む数々の重大な問題を含んでいる。
安全安心パトロールの根拠にしている「精神規範」は、通称生活安全条例である。これは、識者によると、1994年に警察法改正によって警察庁に生活安全局が設置されてから特に制定が促進されている国家的施策。
事実、資料によると当初は市町村レベルで制定が図られ、それに続いて都道府県段階に取り掛かって、2002年の大阪府を皮切りに、広島、滋賀、茨城と矢継ぎ早に制定され、昨年2008年の奈良を最終として、09年3月現在で47都道府県のうち制定未定・討議中・不明の4県(福島、長野、愛媛、佐賀)を除き、91%43都道府県がすでに制定を終えている。
この生活安全条例は、市町村でしらみつぶしのように数多く制定され、それに伴う民間防犯団体つまり「子供110番の家」「子供老人パトロール隊」などの組織化も警察主導で行なわれている。それのみならず、その団体員に対して県警警部補が「尾行の仕方」「ごまかし方」まで教えているありさまである。こういう実態をみると、まさしく警察の下部組織の育成であり、警察国家へのまい進を思わせる。
警察は、新宿通り魔事件など凶悪事件が勃発するたびに、時をおくことなく「犯罪者捕り物」のデモンストレーションを華々しく意図的に展開している。これは、その事件の記憶の生々しいうちに社会不安の精神の傷に乗じて防犯行為の必要性を浸透させる、という意図を持つものだろう。逆に見れば、ことさら社会不安を醸成しているるようにさえ見える。つまり、狼が来る来る、と。
しかし、統計では逆の結果が出ている。犯罪白書を読むと、2007年殺人認知件数は1199件と戦後最低を記録しているし、昭和と比べると半分以下、強姦に至っては3分の1に激減している。
また、2008年では殺人認知件数は1297件と上昇に転じたけれど、かといって1973年から1977年の昭和後半の2000台(1974年は1912件)に比べるとはるかに低いし、それ以降の昭和末の1800台から1400台までの減少した件数にも及ばない。
凶悪化の進行しているというイメージは、その件数の内実が85%以上親族知人友人という親和的人間関係で起こっているから、なおさらマスコミによるセンセーショナルな報道によって増幅させられている一面がある。だから、それなりの理由のないことではない。しかし、件数からみれば、急増とまではいえないのである。
そして、この減少傾向は別の統計、厚生省の人口動態調査から「他殺」を抜き出してみれば、なおさら明らかである。「他殺」は、1997年718人から翌1998年808人を小ピークに2003年705人まで漸減、2004年655人、2005年600人となり、2006年にはついに600人を割って580人にまで減少した。(それ以降は厚生労働省統計なし)。
防犯パトロールの第1の問題は、民間の警備員ですら「正当防衛」以上の権限を持ちえないのに、一般市民である人物が見える形で尾行や監視という行為をして、その対象個人へ”身辺への「圧力」”を感じさせることである。これは、端的にストーカー行為と同じである。それが、集団で行なわれている。
被害者らはこれを「集団ストーカー」と呼び習わしている。これは、どうみてもプライバシーの侵害であり、個人の文化的生活を保障した憲法への違反ではないか。
防犯パトロールの違法行為は尾行や監視にとどまらない。
たとえば、対象個人が生活に必要な物資を購入するために店舗に入ると、そこの店員に防犯パトロールの要員が警戒するように「密告」して歩く。そのまま信じた店員は対象人物をあたかも「万引き犯罪者」のごとくひそかに、あるいはあからさまに尾行して付いて来る。
そういう行為をされた個人の心象はいかばかりだろう。これは、プラバシーの侵害以上に、弾圧のである。防犯パトロールの問題性は、その団体の「警察の下部組織化」という現在の施策に、そもそも問題の芽を含んでいるのである。
なぜなら、防犯パトロールへの警戒対象人物への情報は、そもそも警察サイドからのもので検証されていない。それが恣意的だったら、どうだろう。政治的にであれ、現場の警察官の私的な感情にもとづくものであれ、そういう悪意の情報が紛れ込む余地は十分ある。
それに、防犯パトロールを担当する民間人とて、差別感や偏見と無縁ではいられない。その感情を利用する形で、個人情報が流され、警戒という尾行・監視あるいはスパイという行動が取られるとしたら、それはまさに「警察国家」である。
防犯パトロールを動員しての尾行・監視ばかりではない。
その活動に加えて、警察の生活安全課が地元のライフライン企業と「防犯協力覚え書」という形の協定書を取り付け回っている。宅配便や市役所、電話会社などもそうであり、たいてい子供パトロールとして登録されステッカーを配布している。また、さらに警察は、青色回転灯なる擬似赤色灯をその企業らに使用許可を出し、その登録数の増加を達成目標に掲げている。
たとえば病院。警察と病院の覚え書によって、警察は容易に病院という本来病気治癒という場所を監視の場所に変えてしまう。防犯パトロールの要員が、患者へのボランティアという偽装の形で病院に入り込むのみならず、病院職員自身たとえば看護師が入院病室の対象人物のそばで付きっきりで会話の立ち聞きをするのは日常茶飯事である。
日常的に展開されるこれらの人権侵害は、すでに「警察国家」の域に達している。一般市民の人権意識は低く、まさかという反応と対応を示す。しかし、じっさいやられていることなのだ。
戦前の状況の経験や知識のある人は、気づくに違いない。戦前の自警団・隣組に似ている、と。かつての市民は、異議を唱える自立心と勇気をもたなかった。それゆえ、関東大震災において他民族への殺戮が行なわれたし、鉱山労働の逃亡者へ鎌で追うようなこともした。今の防犯活動の状況は、まさしくこれを彷彿とさせるものである。
全体状況を見回してみれば、いくら防犯といっても、これはやりすぎだ、ということに尽きる。防犯パトロールはなかば小権力化しており、「お上」の威光をかさに来て振る舞っているようにみえるし、このボランティア活動に、ある特定の政治的団体が関与して容易に入り込み、権力化するという流れも疑われている。
宮城で問題となったように、もし情報非公開とされている報償費がこれらの防犯パトロールに使われているとしたら、それは経済的にもバックアップされることであり、児童虐待通知義務法も検討される昨今、市民は否が応にも「密告社会」に巻き込まれることになる。
また、米国や日本の上記「ゲーティッド・コミュニティー」ほど大規模なものではありませんが、今やマンションの主流を占めるオートロック式のマンションも、見ようによっては、上記のそれと同じ様なものではないかと、私は思います。
ガチガチにセキュリティーを高めて、外部からの侵入者を阻止して、それでもう身の安全が確保されたかのような錯覚に浸れるのですから。そうして、内部では一部の顔役だけが幅を利かせて(これも、本記事で引用した町内会の取り巻き連中と同じ)、ビラ配りにまで一々難癖をつけて、一部の取り巻き連の意向と引き換えに、他の居住者の「知る権利」を平気で侵害する様な真似までしているのですから。
しかし、格差社会の弊害が現れるのは、オートロック式マンションの中も外も同じです。変質者は、別に外にだけ居るのではなく、マンションの中にも居るかも知れない。また、マンションに居住当初は「まともな人」であっても、何かの拍子に生活破綻に直面し(サブプライム問題発生以降の世相を見れば一目瞭然)、それを機に、いつ何時「変質者」に豹変するかも知れません。そうなると、寧ろマンションの外よりも中の方が、逆に危険だと思うのですが。
この様な、オートロック式マンション管理に典型的な、「一部の異端者だけを囲い込めば、それで何とかなる」という発想は、南アフリカでかつて行われていたアパルトヘイト(人種隔離政策)や、パレスチナの分離壁、北朝鮮の「政治犯」強制収容所のそれと、全く同じです。「臭い物に蓋」宜しく囲い込んではみたものの、本当に囲い込まれているのは、実は相手ではなく自分たちだった、という意味においても。
オートロック式マンションの事例は、社会の矛盾や構造的な問題には一切目を向けず、ひたすら御身の安全だけを考えているだけでは、肝心の御身の安全も守れない、という事の、良い例です。