エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

良心と裁判 日本の裁判所の厳罰主義は、日本人の「恥」の深さ・強さの反映

2013-04-03 05:13:31 | エリクソンの発達臨床心理
 前回の翻訳箇所では、「悪い良心」によって、人がいかに自分自身が分裂してしまうか、が説得的に、具体的に示されていたと思います。この「自分が分裂する」ことが、様々な心の病と戦争の根っこにあることも実に鮮やかに示されていました。他方、心の病から回復し、あるいは、様々な争いに和解をもたらし、真に戦争を回避するためには、まず自分自身が自分自身と和解し、一つの自分を作り上げることがいかに大事かも、同時に示されていたと思います。アイデンティティを統合していくことがいかに大事かが分かるだろうと思います。
 さて、今日は幼児前期の第4段落の翻訳です。





 大人の儀式の何がこの2番目の幼児前期に根っこがあるか、お分かりだろうと思います。裁判という見世物の中に十分に練り上げられた形で、この分別の要素が大きなスケールで繰り返し確かめられます。誰にとっても自分の心の中で思い当たるドラマが、公開の舞台の上で目に見える形で示されるのです。というのも、法律とは、私どもがそう思い込んでいますが、ああ、私どもの良心がそうであるように、どこまでも用心深いからです。法の原理が、六法全書に法律が固定化されるように、私どもの信念体系に書き込まれて、押しなべて実現するのは、法律の執行が恰好の被告人に言い渡される時なのです。いったん被告席に座ると、被告人は「一人の見せしめ」として役立ちます。多くの人たちが、その「一人の見せしめ」に自分たちの心の中にある恥を投影することができます。その見せしめの行いは、昔耳にした、親の裁きや兄弟の告げ口、それに、周りがはやし立てる声を、公衆の面前に示すものです。判決は、つかの間の激しい怒りや私的な仕返しなどではなくて、正当な同意のもとに、言い渡されます。被告人がそのお裁きを、悔悛の情を持って受け止めるか否かにかかわらず、また、そのお裁きが実際に「被告人に教訓を与える」かどうかにかかわらず、正義は、こうやって利用されてきました。





 短いですが、第4段落はこれで完了です。
 良心と、実際の裁判が、いかに関わり深いものかが示されていると思います。小さい頃、親や大人から、「ダメ」と言われた時に感じた恥が、テレビなどで報道される裁判の被告に投影されていることが分かります。私どもが判決を聞いた時、「悪いことをしたんだから、当然だ」とは考えても、自分さえ気づかないでいる恥がそこに投影されているとは、なかなか気づかないものではないでしょうか?
 その意味では、日本の裁判所の厳罰主義は、多くの日本人が、エリクソンが言う「恥」をいかに深く、強く、無意識裏に抱いているのか、を反映していると言えるでしょう。

 本日はこれまで。
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