日常生活の中から礼拝の具体例を挙げて、分別と礼拝についてお話ししました。どうだったでしょうか?
さて、今日はToys and ReasonsのRitualization in Everyday Lifeから、幼児前期の部分の第6段落です。幼児前期も残すところ、段落2つです。それでは、翻訳です。
しかしながら、この分別の要素が、公的に、そして、私的に、うまく働いていることが分かる時、分別の礼拝が、どこで適応的な働きを失うかも分かります。すなわち、分別の礼拝が適応的な働きを失うのは、我慢できる程度の、しかも、実行可能な、善と悪の境界線を、世代から世代に、確信をもって引き継ぐことができない時なのです。裁判所という儀式一般は、被告人になるかもしれない人たちを脅かす戒めとして、「これは法が定めた罪になりますよ」と犯罪を客観的に確定する仕事はするけれども、一人の人が「このことには道徳的に責任があるな」と感じる主観的な心の働きとは、かけ離れていることがあまりにも多いですし、しかも、そのかけ離れかたが大きすぎるのです。司法制度は実際のところは、道徳的には怪しいことを餌にして存在することができます。なぜなら、司法制度は、正しいと感じることに対して、従うようにひどく強制する点を重視しがちで、自由意志に従って同意する点はさほど重要視しないからです。すなわち、司法制度は、執拗に型式にこだわり官僚的であることを強調しこそすれ、確信のある礼拝であることはあまり顧みないからなのです。裁判が始まると、裁判は、世間をあっと言わせるようなのぞき趣味を助長するかもしれませんし、その刑罰の手続きにおいては、道徳的ないじめを助長するかもしれません。司法制度のこれらすべての点は、被告人を絶望的な孤立にますます追い込みますし、被告人の、どうすることもできない激しい怒りを深めることになるかもしれません。どうすることもできない激しい怒りが深まれば、人は必ず「恥知らず」になるものです。このようにして、形ばかりの礼拝の第2の主要な要素が登場することになります。それは「お役所仕事」と呼んでいいかもしれません。お役所仕事とは、文字そのものが言葉や法の精神よりも勝っているということです。お役所仕事は、中身のない正義が示される時や、形ばかりの遺憾の意が表明された時、あるいは、被告人にとっても他の誰かにとっても良いことなのかどうかはお構いなしに、「被告人をさらし者にしろ」、「刑務所に送れ」と道徳的に強い主張がされる時に、目に見える形になります。こういったことは皆、人間が、正義や恥に対する自分自身の感じと心の中でしている取引に影響しますし、「政治的」駆け引きが可能になるのは、正義に関する法的な仕組みのおかげなのです。ここでもまた、日常生活の礼拝がうまく機能しない結果生じる心の病と、礼拝における人間関係を機能不全に陥らせることに特色がある社会病理は、密接に関係しています。人がある時には恥知らずなほど衝動的になり、また別の時には細部に強迫的にこだわることを交互に繰り返すことを礼拝が防げない場合、すなわち、人がある時は自分を剥き出しにするのに、別の時には自分を出すのを我慢することを交互に繰り返すことを、礼拝が防げない場合、そんな人間関係は、凶悪事件の蔓延を防げませんし、厳罰を課す、正義の誤用も、防げません。
以上が翻訳です。
まるで、このくだりは、今の日本のことを言っているようではないですか?「お役所仕事」しかり、「秋葉原」等の無差別な殺人事件の多発しかり、それに対して、何が何でも法を強制するための、厳罰化の傾向しかり。日本は礼拝が非常に弱体化している、と言わざるを得ません。そのかわりに、形ばかりで、お座なりなこと、すなわち、原理にも現実に対しても遊びの乏しい硬直的な関わりしかできない状況(偶像崇拝)や、言葉や法の精神よりも、形式的に文字に記されてることのみが優先され、形だけの正義ばかりが示される状況(お役所仕事)の蔓延こそ、日本社会の現状ではないでしょうか? ですから、個人のレベルでは、子どもから老人まで、心の病が非常に多いですし、社会病理と思われる現象も多岐にわたって、深刻なのでしょう。今私どもに問われていることは、いま一度、命を、温もりを実感できる礼拝を再生することではないでしょうか? すなわち、身近な人に対して、自分自身の価値を認めるように、価値を繰り返し認めていくこと、そういう人間関係の再生が大事ではないでしょうか?
今日はここまで。