前回の部分は、エリクソンが現在の日本の社会状況を予言しているかのようでしたね。でも、エリクソンはノストラダムスではありません。そんな予言を記したのではありません。むしろ、ハーモニーのある人間関係を生成し、そういう人間関係に基づいた習慣も生成することになる毎日礼拝が弱体化する時、どのような人間関係と習慣が蔓延するのか、を実にリアルに描いているのです。
さて、今日はToys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeから、幼児前期の部分の最後の段落、第7段落です。それでは翻訳します。
私どもはここで立ち止まって、漸成発達説《訳注:生物はそのひな形が初めから決まっているのではなく、次第に生成されるものだ、という考え方》に従って,毎日礼拝のそれぞれの要素の要点を記しておきたいと思います。儀式化のそれぞれの要素は、のちのち、主要な人間関係の要になるものですが、子どものころの別個の発達段階に根差しているものの、それに続くすべての発達段階において、吸収され、新たにされるものです。このようにして、ヌミノースの要素も、まるで正義の権威すべてがまとうようなオーラとして、分別の毎日礼拝において再び登場します。ヌミノースの要素はまた、神のイメージ、あるいは、揺るぎない正義のイメージの中にあることに、後になって気付きますし、あるいは、裁判官として、揺るぎのない正義のイメージを体現する力を帯びた具体的な個人の中にあることにも、「正義」を道徳的に分類する中にあることにも気付きます。しかし、これは何も、ヌミノースの要素と分別の要素がそれ自体、真の礼拝を「でっち上げる」、と言いたいのではありません。もっとも、ヌミノースの要素と分別の要素は、子どものころの特定の時期に固有のものですし、大人になった時の特定の人間関係において不可欠のものになるのですが。まだ発達していない、後の儀式化の要素はすべて、ヌミノースの要素と分別の要素に合流するはずです。これらの中で、私が続いて論じるのは、筋立てを作る要素(これを考えると、子どものころの遊びを思い出します)ときちんとやる能力という要素(学童期の目標です)と価値に対して命がけで献身する要素(青年期の課題です)です。
以上で、幼児前期の部分の翻訳は完了です。次回からは幼児後期に入ります。
さて、今回は儀式化の要素の要点をまとめた部分でしたね。幼児後期以降の儀式化の要素も短い言葉で記されていましたが、それについては、その部分を翻訳するまでお預けとします。
今日の部分で大事だと私が感じるところは、エリクソンはサラッと記しているので、気付かないかもしれません。それは、「毎日礼拝のそれぞれの要素は、のちのち、主要な人間関係の要になる」という部分です。毎日礼拝は、今まで翻訳したところを読んでいただければ理解できると思いますが、人間関係を生成するとともに、それに見合ったイメージを子どもと大人の心に生成するものです。それは今後の毎日礼拝の要素においても変わらないということです。そして、この人間関係が繰り返されるがゆえに、その人間関係にかかわる人々の心の習慣、生活習慣も生成することになるのです。ここのところが大事だと感じる所以です。
しかし、そればかりではありません、その人間関係や心の習慣、生活習慣は、日頃あまり意識しない、意識できないものではないでしょうか?当人にとっては、「何の不思議もない」「これが当たり前」のものになっているので、ことさら意識に上らないのです。そうすると、人間関係や心の習慣、生活習慣は、まさに、無意識に日々体験されることになります。したがって、それは非常に強い“慣性”を持つことになり、なかなか変えられない、ということにもなりがちです。
ですから、人間関係や心の習慣を最初に生成する毎日礼拝が、それだけ大事なのです。毎日礼拝は必ず子どもと大人(あるいは、人と人)という対になり,しかも,対等な人間関係の中で行われるものですから、子どもに関わる大人は、そのことを意識して関わりたいと思います。そう考えるのは私だけではないはずです。