エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

エリクソンが見た、戦争のもう一つの危険

2013-04-23 05:03:27 | エリクソンの発達臨床心理
 前回は、日常生活の儀式化がいかにダイナミックか、というお話でした。そして、儀式化は<私>と、他の人の<私>が出会い、連帯するものであることも分かりました。
 さて、今回はToys and Reasons のRitualization in Everyday Lifeの、青年期の部分の第5段落です。それでは翻訳です。





 儀式が保証するすべての観点から見て明らかなのは、「儀式化された戦争」が歴史を通して果たしてきた役割とは何だったのか、ということです。それは、まぎれもなく、繰り返し行われてきた戦争(戦争が繰り返し起こることを予期し、また、準備すること)によって、儀式化を大いに必要とする思いが、軍事的な儀式化に向かってしまった、ということです。この軍事的儀式化は、市民としての生活の仕方に決定的な影響を与えます。儀式化された戦争には、将来の敵であっても、ある程度までは、共同の歴史において、お互いに英雄の役割を認め合う、という主張を含んでいました。






 これで青年期の部分の第5段落の翻訳は完了です。
 いかがでしたでしょうか?ここはさらっとエリクソンは書いているところです。「儀式化された戦争(ritualized warfare)」を取り上げたエリクソンの意図は何だったのでしょうか?
 それを少し考えてみたいと思います。前回「<私>が新鮮にされるとき:<私>と、遊び相手の<私>との出会い 」の中で翻訳したところを見返してみたいです。儀式には、1)<私>と他の人の<私>が出合い、連帯する中で、<私>を新鮮にする、2)悪者(敵)を排除し、自己犠牲することで、幼い(幼稚な)良心が物事に上手に対処する、3)心の中で大事にしている理想に一緒に賭ける、4)習った正式なやり方をよいものと認める、を保証する働きがあります。すると、「儀式化された戦争」にも、この同じ働きがあることになります。ですから、エリクソンは、「まぎれもなく、繰り返し行われてきた戦争(中略)によって、儀式化を大いに必要とする思いが、軍事的な儀式化に向かってしまった」と言うのです。つまり、他のやり方で青年期の儀式化は行われうるのに、「儀式化された戦争」によって、若者の儀式化を求める強い思いが利用されてきた、と言うわけです。
 しかも、それだけではありません。「将来の敵であっても、(中略)お互いに英雄の役割を認め合う」のですから、味方同士はなおさら「英雄として認め合う」ことになります。靖国神社に合祀されなくても、自分も英雄になれる、というストーリーに、幼稚な良心は大きな魅力を感じないはずがないでしょう。阿部さんもこのストーリーを今利用しようとしているのでしょう。この点にエリクソンは、私どもの注意を喚起している、と言えるのではないでしょうか?
 本日これまで。

コメント
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