陽気で楽しい、ということが実に奥深いことが分かります。
いかなる世界に対する見方においても、こういった世界の見方を構成するどの要素でも、非常に多様な形で現れます。そこには、圧倒的な文献が、神話から歴史編纂に至るまで、ひとつ存在し、様々な、いっそう公式の、いっそう儀式的な形の、世界に対する見方を収集し、伝達し、分析しています。しかし、1つの「生き方」についてお話しする時に、私どもが興味深く学ぶことになるのは、1つの世界に対する見方が、その見方に加わっている人の考えとやる気に公然と、あるいは、暗黙の裡に、到達する、その仕方です。その仕方が、行事の時にはハッキリし、感情を露わにする場合もあれば、日常生活の儀式化においては、ほとんど分からない場合もあります。分からないのは、そうするのが当たり前だからです。その仕方の根本は、すべての人の、その見方に異議を唱える者も、その見方に忠誠を尽くす者も、話し言葉と考え方の配置において、命令する立場になることです。特に、歴史的大変動が、話し言葉と考え方の配置に関して新しい意味をきっぱりと共生する場合はそうなのです。実際問題、私どもは結論として強調しておかなくてはならないのは、1つの世界に対する見方をまとめるのと同じくらい体系的に輪郭を記したあらゆる次元は、ヴィジョンと対抗ヴィジョンが持続的で、常に驚くべきやり取りにおいてのみ、ダイナミックに当てはまる、ということです。このヴィジョンと対抗ヴィジョンのやり取りは、一定の根源的なアンチテーゼの中に生き続けます。この過程に関わる弁証法に関して、私どもは個人の生涯のサイクルと、世代を継承するサイクルの弁証法について触れてきました。すなわち、創造的な儀式化と儀式の厳格さの弁証法と、「人間を上下2つに分けるウソ」と1つの人類の弁証法について触れました。いたるところで、1つの非常に根源的な弁証法、つまり、意識の上でのやる気と無意識の中でのやる気の弁証法が、暗に示されていました。
ここのところは、非常に分かりにくいですね。しかしながら、1つはっきりしているのは、世界に対する見方は、話し方やものの考え方に影響を与えるということ、それは、意識と無意識のやり取りを通してである、ということです。