相対的な視点に対して確信を持つことは、それ自体、二律背反、矛盾です。しかし、考えて見れば、人間の立場に絶対的なものはないのです。ですから、人間ができることといったら、自分の歴史的な相対的立場を自覚し、その上で、自分自身を賭けてみたい(超越的)価値との相対的・相互的関係を大事にして、生きていくほかないのではないでしょうか?
しかし、私が申し上げたいのは、私どもが一定の、十分に情報を得たうえでの相対主義を、自覚を持って経験し、発展させることができるチャンスを持てるのは、まさに、学者たちの議論ではないのか、ということです。なぜなら、あらゆる「共に見る」ヴィジョンには、何かしら、洞察によって超越を求めるものがあるからです。それは、私どもが、人間に対して、1つの非常に普遍的なイメージに近づく程、超越を求めるようになるのです。無意識が、幅広い意識に何がしかの特質を与えるものであることは、それ自体が1つの進化の偶然の一部になったのかもしれません。同時に、科学技術の発達は、証明可能な事実、人と分かち合うリアルな感じ、欠かすことのできないやり取りの3つの性質や相対的な割合を、新しく登場した、世界に対する見方の中で、根っこから変えてしまっています。<いまここ>で生きている不思議と重荷は、人間が操作する力が“想定外に”(建設的にも、破壊的にも)大きいことに特色付けられていますが、人間の最も有力な啓示と自由の核として、古い人であるアインシュタインの判断力に従って、証明可能な事実に集中することを求めています。人類は、無意識に関して学び始めたことを考慮せずして、様々な新しい意識(自覚、「共に見る」こと)を伝達する余裕はとてもないでしょう。
人類は、岐路に立っているのは、何も核の時代が到来したことによるばかりではないようです。科学技術の大きな発展の故に、人類は、証明可能な事実、リアルに感じること、人々とやり取りし分かち合う事実の内、証明可能な事実を重んじる傾向を強めています。それでいて、無意識という、必ずしも証明可能な事実に馴染むものではないことを考慮しなければ、新しい意識を世代から世代に伝える余裕はとてもないのが現状であると、エリクソンは言います。証明可能な事実を重んじる時代精神と、無意識を考慮せざるを得ない状況も、二律背反です。
しかし、それだけではありません。臨床をしていると、無意識の圧倒的な暴力に翻弄されている個人や組織が、ビックリするほど多い日本の現状に思い至ります。日本に新しい意識が現れることは果たして可能なのかどうか、懐疑的にならざるを得ません。その一方で、NHK以外のキー局が盛んに占いを繰り返す状況、「パワースポット」巡りブーム、踏切で動けなくなった老人を助けて亡くなった女性への賞賛の広がり…等に、共通して現れているように感じられる、「信じられること」探しが爆発的に広がっていながら、「信じられること」、社会が進むべき方向性、オリエンテーションを見出したとはとても言えない現状!
思いがけない「端っこ」から新しい意識は、思いがけず現れるのでしょう。