倫理的に生きる方向性がハッキリすることが、子どもの強くて、柔軟で、だからこそ、人のためになる良心を育むことになります。この逆(対偶)も、真なりでしょう。日本におけるように、硬直的で、他罰的な良心が(犯罪者に対する厳罰化、土下座の流行に見られる厳罰化ヘの極端な心理的傾き)幅を利かせるのは、倫理的に生きる方向性がハッキリしていない、何よりの証拠です。
日々の仕事に関して、臨床上の精神分析的観察には、ヴィジョンを「共に見る」こと(それが、信念、確信、意見、空想、幻想の何れであるように思われるものであっても)が、1人の人がピチピチ、キラキラ生きることに繋がる仕方に対して、非常に貴重な光を投げかけることができるものがあります。なぜならば、「共に見る」ヴィジョンがあれば、訓練された元気が、社会や環境の資源とのやり取りのなかである程度実現するのを助けて貰えるか、あるいは、理解できない世界の中で、元気も活力もない感じが強まります。それから、ある1人の人の心の生活に、その人の生育歴のある段階で起こることが、その歴史的瞬間に、世界に対する見方を発達させる時に支配的な社会制度の危機といつも深く関係しています。とにかく、組織の中での取引の現実(政治的現実)に対して精神分析的な評価が始まるのは、まさにここなのです。なぜなら、人間が適応できるかどうかがかかっている共通の核心に私どもが自覚を持つときに初めて、心の防衛と組織の中で行われる取引(政治的取引)が結びつくことは、権力の配分の際に受け継がれ、なおかつ、あらゆる個人と公共性に対して、法の形式的運用(律法主義)、官僚政治、技術体系という形をとる硬直化を通して、脅威を与えるものですが、組織の中で、個人の「防衛機制」の対になるものである、という理解が進むからです
個人でも、組織でも、対話とやり取りがなくなれば、硬直化します。個人の硬直化が、防衛機制の生成であるとするならば、組織の硬直化は、律法主義、官僚政治、技術体系という形の硬直化になって現れます。その時、1人の人の防衛機制は、組織の中での様々な裏取引と結びつく、と言うエリクソンの指摘が、具体的に様々な組織を精神分析的に評価する際に、極めて重要な視点になります。自分が所属する組織ばかりではなく、日本の様々なレベル、様々な組織での政治やあの電力会社や日本の一番の銀行を理解するのに、役立つでしょう。