エリクソンは、ルターが不安障害(神経症)の苦しみさえ、自分を確かにする(アイデンティティのために)ことに活用できる、偉大なる「受苦的存在」として、認めています。それは、エリクソン自身が、「父無し子」として生まれ、ユダヤ人として差別され、ジェノサイドの中でアメリカに亡命せざるを得ないという、苛酷な苦しみさえ、自分を確かにする(アイデンティティの)ために活用できたからこそ、ルターについてこのようにハッキリ言葉にすることができるのだと、私は考えます。
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私は私が掲げた副題を取り上げようと思います。この「精神分析と歴史における研究」という副題は、バラバラな歴史の断片を(ここでは、偉大な改革者の青年期ですが)、精神分析を歴史的道具として用いることによって、価値づけ直すことになるでしょう。しかし、それはまた、あちこちで、歴史研究の道具として、精神分析に光を当てることになるでしょう。この点に関して、数ページの間、主題のテーマから道を逸れなくてはなりません。それは、この方法論的副題に着目するためです。
精神分析は、あらゆる学問体系同様、それ自身の内的な発展史があります。観察法として精神分析は、歴史を手に入れています。すなわち、1つの思想体系として、精神分析は歴史を作っているのです。
私は序章において申し上げたことは、1人の精神分析家が、1つの新しい種類の「 受苦的存在」に対して自分の関心の焦点を移す時にはいつでも、たとえその種の人たちが、同じ年齢であっても、似たような育ちをしていても、あるいは、同様な臨床上の病理の犠牲者であっても、その精神分析家は、自分の技法を変更せざるを得ないばかりか、自分が技法を修正する理論的根拠が説明せざるを得ない、ということです。このようにして、技法に徐々に磨きをかけることから、心に関する1つの理論も完成するように思われます。これこそ、精神分析が依って立つ歴史的ものの考えです。
精神分析、ないしは、その流れの心理臨床が、臨床から、あるいは、「受苦的存在」であるクライアントから、いつも何度でも学び続けることがハッキリと示されました。それは、臨床家がクライアントを変えるのではなく、臨床家が自分を変えていくことです。「過去と他人は変えられない」、すなわち、「未来と自分を変えていく」のです。