エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

1人の裸の個人として、正面から対すること

2013-10-25 03:40:40 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析、および、その流れにある心理療法は、クライアントに合わせて、自分の技法とその理論的根拠を変更し続けるものなのですね。それは、「受苦的存在」であるクライアントが一番大事だからでしょう。

 

 

 

 

 

 子どもでもなく、青年でもなく、さらには大人にもなっていない若者の「受苦的存在」であるクライアントの特色は、あらゆるセラピーの中で経験される傾向が強調されることです。若い「受苦的存在」であるクライアントたち(なかんずく、普通ではない若者たちは)は、自分自身に対して、あるいは、自分の身の回りの者たちに対して、かなり全面的な要求をするものです。つまり、そういう若者たちが要求するのは、自分自身のことを毎日毎日価値あるものと認めてほしい、ということですし、さらには、自分の意義ある将来において、あるいは、自分の意味を感じなかった過去において、価値あるものと認めてほしい、ということです。価値あるものと認めてほしいのは、かなり明白な徳・力においてだったり、弱さにおいてだったり、あるいは、その人ならではの持ち味が育つことにおいてだったり、自分を見失ってしまうどん底においてだったりします。非常に苦戦している若者たちは、「カウチ向け」(初期の精神分析の技法)ではないのです。こういった若者たちがあなたに求めるのは、親代わりとして、プロの支援者という仮面をつけて、自分と正面から向き合ってほしい、ということでもなく、1人の若者が一緒にいることができる、あるいは、絶望することになる、まったくの1人の裸の個人として正面から向き合ってほしい、ということです。不意に、このように心理的課題を抱えた若者に出くわすと、その精神分析家が初めて学ぶかもしれないことと言えば、正面から向き合うとはどういうことか、ということであって、1つの問題に直面することではありません。おそらく、マルティンの魂の師である、シュタウピッツ先生も、私が思っていることを知っていたのでしょう。

 

 

 

 

 ここは非常に大事なところです。クライアント、いいえ、1人の人と本当に向かい合おうと思った時、一番大事なことが書いてあるからです。それは、裸の個人として、その人と向き合うことです。それは、自分自身が、日頃から裸の自分と向き合っているからこそできることなのです。別の言葉で言えば、自分に正直になること、自分になるべくウソをつかないことです。

 これは何もセラピストの専売特許ではないのです。先日女優の大竹しのぶさんは「女優として大切にしていることは?」と問われて、次のように答えていましたね。

「お芝居でも、ウソはつきたくないけど、実生活でもうそつきたくない」、

「自分の心に嘘をついて生きたくない」

ってね。

コメント
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