エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ルターを、「普通」と比べちゃいけません

2013-12-07 06:46:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターをうつ病と見なす見方もあったのでした。エリクソンはそれには懐疑的なようです。しかし、ルターやその流れのプロテスタントから鋭く批判されたカソリックは、ルターその人を相当「悪く」見ざるを得ない気持ちになったことは、創造できます。

 

 

 

 

 さらに関して申し上げれば、若いころのルターやあの精神科医の主張、すなわち、ルターのtentatiiones tristitiae 、つまり、「宗教的動物」が陥る一つの伝統的な誘惑、という悲しみは、うつ病に最もよくある症状のイメージの、古典的ないくつかの特色に当てはまるという主張に関しては、私どもは明らかに疑り深くなっています。なぜなら、徹底して、ルターに関する、この精神科の教科書は、ルターと、他の真実に宗教に没頭した例なら、ルターに匹敵する賜物の持ち主と比べるのではなくて、「落ち着いた」標準事例と比較しているのです。普通の人がもっている、心のバランス、人生を単純に楽しむこと、普通の上品さ、決まって努力する方向性、と比較しているのです。この精神科医はルターが天才であると認めてはいるのに、それなのに、ルターに対して、私が知る限りでは、創造的な歴史的関わりを維持すること等、期待できないような、心の状態を求めるのです。

 

 

 

 

 

 この精神科医は、ルターに無理な要求をしていることになりますよね。

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2種類あるパレーシアの「悪い」方

2013-12-07 03:34:54 | フーコーのパレーシア

 

 人生の課題やスピリチュアルな課題、あるいは、関係性が問題になる子育てや教育、あるいは、政治参加に関わる場合には、話し手と話の中身の関わりこそが重要なことが分かります。都知事や「一流」と言われるレストランや企業が、「言っていること」と「やっていること」がバラバラ、つまり、大ウソつきであることが分かってきた今の日本の社会状況を考える時、パレーシアとパレーシアステス(パレーシアな話をする人)がいかに重要かも分かります。

 

 

 

 

 

2.パレーシアと真実

 私どもが区別しなくてはならない、2種類のパレーシアがあります。第一に、この言葉には非難する感じがあり、ほぼ「ぺちゃくちゃしゃべる」ということと変わらない感じがありますし、それは、頭では何の資格もなしに、どんなことでも、何でも話すことです。非難する感じは、プラトンにあります。たとえば、愚かな民主主義の政治体制の1つの特色であって、そこでは、皆が仲間の市民に向かって話しかける権利がありますし、彼らに何でも話せる権利があります。しかも、その町にとっては、一番愚かで、一番危険なことさえ話す権利さえあるのです。この非難する響のある意味は、キリスト教文学にも、よく見られます。そこでは、悪いパレーシアは、「沈黙は金」だとか、「神様に、じっくりと思いを巡らせるために必要な状態」としての沈黙だとかの、正反対です。頭と心のあらゆる働きを求めることになる言語活動として、パレーシアは、この消極的な意味では、神に思いを凝らすことには障りになります。

 

 

 

 

 

 ここで取り上げられたパレーシアは、悪い意味だそうです。しかし、「特定秘密保護法」何ぞと言う、非常に愚かな、民主主義を破壊するような法律が成立するような日本の社会状況、「一流」と言われるデパート、レストラン、交通機関、銀行などが、平気でウソをつく社会状況の中では、この「悪い」パレーシアさえ、「善きもの」に見えてしまうのは、私だけでしょうか?

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