ルターの発作は、精神病と宗教の間の境界線上にある、ということでしょう。
私どもがこのエピソードに精神病理学の視点から迫るならば、私どもが気付くのは、この描かれてきた発作(それから、当時マルティンが陥っていた、様々な症状の、良心の呵責と不安)には、本来備わっていた、矛盾した気持ち、内的に二面性、あらゆる神経症に見つけることができるものがある、ということです。その発作は、その話し言葉の部分(「私じゃない」)において、マルティンの父親が言ったこと、すなわち、「うちの息子は、聖霊に取りつかれたのでしょう」を否定している、言われるかもしれませんね。しかし、この発作は、ルターの父親の指摘が正しいことを、まさにその出来事が同じ会衆の前で起こることによって、証明してもいます。その会衆は、以前であれば、父親が自分の怒りと不安を渕巻いていたのです。
ルターの発作は、矛盾した気持ちや内的な二面性を示すのですね。それは、神経症の典型なのです。