エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発作は、矛盾した気持ちの印

2013-12-21 23:22:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 ルターの発作は、精神病と宗教の間の境界線上にある、ということでしょう。

 

 

 

 

 

 私どもがこのエピソードに精神病理学の視点から迫るならば、私どもが気付くのは、この描かれてきた発作(それから、当時マルティンが陥っていた、様々な症状の、良心の呵責と不安)には、本来備わっていた、矛盾した気持ち、内的に二面性、あらゆる神経症に見つけることができるものがある、ということです。その発作は、その話し言葉の部分(「私じゃない」)において、マルティンの父親が言ったこと、すなわち、「うちの息子は、聖霊に取りつかれたのでしょう」を否定している、言われるかもしれませんね。しかし、この発作は、ルターの父親の指摘が正しいことを、まさにその出来事が同じ会衆の前で起こることによって、証明してもいます。その会衆は、以前であれば、父親が自分の怒りと不安を渕巻いていたのです。

 

 

 

 

 ルターの発作は、矛盾した気持ちや内的な二面性を示すのですね。それは、神経症の典型なのです。

 

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民主主義の根幹

2013-12-21 03:09:32 | フーコーのパレーシア

 

 今日からフーコーの講義も二日目に入ります。そのタイトルは「『パレーシア』と言う言葉の発展」です。

 

 

 

 

 

 次にこのセミナーで私がしたいことは、「パレーシア」のあらゆる次元と特色を研究し分析することではなくて、むしろ、パレーシアの勝負が(紀元前5世紀以降の)古代の文化において、キリストが登場するまで、発展する側面を示し、強調することです。3つの視点から、この言葉の発展を分析できる、と私は考えています。

1、パレーシアとレトリック

 まず初めには、「パレーシア」がレトリックとどういう関係か、ということです。それは、エウリピデスの文書においてさえ、不確かな関係です。ソクラテス・プラトンの伝統では、「パレーシア」とレトリックは、鋭く対立します。そして、この対立は、例えば、『ゴギア』において非常に鮮明に出ます。ここでは、「パレーシア」という言葉が登場します。切れ目なく長々と話をすることは、1つのレトリック上の、洗練された手立てです。一方、質疑を通してなす対話が、「パレーシア」にとって典型です。つまりそれは、対話こそが、パレーシアの勝負をする際の主なやり方なのです。

 

 

 

 

 

 ここからハッキリします。対話が「パレーシア」の主なやり方だとすれば、「パレーシア」は民主主義にとって、根幹をなすやり方である、ということが、です。

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