エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

それでも、陽気で楽しいスピリッツで!

2014-07-06 10:45:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
陽気で楽しい、というスピリッツ
  現実には3つのアスペクトがあるけれども、現実が流砂のような進化の過程の中に置かれて、しかも、人の群れる心理に取り込まれると、ウソと村八分が始まってしま...
 


 ものを見る際の、陽気で楽しいスピリッツは、ハッキリと、シッカリと物事を見ることを邪魔することもある。政治家が使う譬え、「鉄のカーテン」、「竹のカーテン」、「ドミノセオリー」などがそうだとエリクソンは言います。最近の例だと、「自由な働き方ができます」など期待させながら、その実は、過労死と過労自殺がさらに増える社会が来ても平気な安倍晋三首相のデマゴキブリ(デマゴギーぶり=大ウソつき)丸出しの、「成果主義」賃金、「残業代ゼロ」なども、まさに、「良さそうに見えて、その実、悲惨な社会の到来を告げるもの」です。あの大ウソつきには要注意です。

 それでも、陽気で楽しいスピリッツは、何よりも大事だ、と申し上げたいと思います。この言語がplayful プレイフルであることに注意が必要ですね。つまり、遊びに溢れていることが大事だ、ということです。

 英語でも、日本語でも、play 遊びは、とても多義的ですよね。遊び。「ブレーキの遊びがある」などと言えば、「ゆとり」、「余裕」を意味しますでしょ。陽気で楽しいスピリッツのためには、まず第一に、「ゆとり」、「余裕」の意味での「遊び」が必要です。

 しかし、それだけでは足りません。「ゆとり」、「余裕」がなければ、その次の段階に行きませんが、それでも、「ゆとり」、「余裕」だけじゃね、足りない。遊びは、いろんなことを試してやってみる要素がありますでしょ。かくれんぼをしていて、ここに隠れたけれども、見つかっちゃったら、次はもっと見つかりにくい場所を探して、「今度はここにしよう」と試すでしょ。この「新しいことを試してみる」という意味での「遊び」も必要ですね。新しいことに挑戦するので、ちょっぴり緊張感もある。しかし、新しいことをしている楽しさ、嬉しさもある。

 さらには、遊びの本来の要素とでもいうべき、やることを楽しむ、やることを喜ぶ要素ですね。その意味での「遊び」がきますね。でも、一人で楽しんだり、一人で喜ぶんじゃない。「どうやったら、一緒に楽しめるのか?」、「どうしたら、共に喜べるのか?」。楽しんでみる(見る)、喜んでみる(見る)んです。そうすると、不思議なことですが、本当に一緒に楽しめるんですね、共に喜べるんですね。不思議で面白いですね。

 いろんな意味での「遊び」があるから、陽気で楽しいスピリッツは、遊び相手を、自分と同じように肯定し、物事を好転するためにはなくてはならない視点なんですね。

 

 

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どうすりゃ 対等になれるのか?

2014-07-06 05:21:08 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 子どもの願いは、真実なものです。その願いを表現したものが、どれだけ粗暴なものに見えても、不可解に思える時でも、違いはありません。いずれも真実な最深欲求に根差すものです。

 ですから、その子どもの願いに応えようとすれば、大人の側にもその真実さが求められるわけです。そして、この二人の関係が≪真の関係≫なのですね。そして、子どもの願いに応えようとすれば、親身にならずにはいられませんね。

 P44下から4行目から。

 

 

 

 

 

 親身になって人を大事にすることは、対等な関係の2人の間で≪真の関係≫をやることです。しかし、対等だと思っても、私どもは常に対等だとは限らない。私どもは人間である限り、私どもはすべて、他者からの支援を必要としている存在です。「明日は我が身」なんですね。しかし、この≪支援が必要≫ということが、その人が無力で、もう一人が強い、ということを意味するのではありませんでしょ。無力なのは一時なんです。自分の足で立ち、自分の足で歩けることは、ごく当たり前の、皆に共通することなんです。

 

 

 

 

 

 フロムは大事な点を指摘しつつありますね。台頭ということです。しかし、強い者が、弱い立場の人と「対等」と思っても、たいていは強い者が圧倒的に有利な立場であるのです。しかし、このことは、強い立場の者は忘れがちなんですね。

 強い立場の人は、弱い立場の人に対して、あえて「下」を意識的に選ぶとき、どうにか、弱い立場の人と「対等」になれる、と考えたほうが実際に近いですね。ですから、「理解する under-stand」という言葉は、良くできてますよね。人は敢えて「下」を選ばない限り、相手の人のことを理解することなど、おぼつかないのですから。その点を常に意識していたいものですね。

 

 

 

 

 

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