陽気で楽しい、というスピリッツ現実には3つのアスペクトがあるけれども、現実が流砂のような進化の過程の中に置かれて、しかも、人の群れる心理に取り込まれると、ウソと村八分が始まってしま...
ものを見る際の、陽気で楽しいスピリッツは、ハッキリと、シッカリと物事を見ることを邪魔することもある。政治家が使う譬え、「鉄のカーテン」、「竹のカーテン」、「ドミノセオリー」などがそうだとエリクソンは言います。最近の例だと、「自由な働き方ができます」など期待させながら、その実は、過労死と過労自殺がさらに増える社会が来ても平気な安倍晋三首相のデマゴキブリ(デマゴギーぶり=大ウソつき)丸出しの、「成果主義」賃金、「残業代ゼロ」なども、まさに、「良さそうに見えて、その実、悲惨な社会の到来を告げるもの」です。あの大ウソつきには要注意です。
それでも、陽気で楽しいスピリッツは、何よりも大事だ、と申し上げたいと思います。この言語がplayful プレイフルであることに注意が必要ですね。つまり、遊びに溢れていることが大事だ、ということです。
英語でも、日本語でも、play 遊びは、とても多義的ですよね。遊び。「ブレーキの遊びがある」などと言えば、「ゆとり」、「余裕」を意味しますでしょ。陽気で楽しいスピリッツのためには、まず第一に、「ゆとり」、「余裕」の意味での「遊び」が必要です。
しかし、それだけでは足りません。「ゆとり」、「余裕」がなければ、その次の段階に行きませんが、それでも、「ゆとり」、「余裕」だけじゃね、足りない。遊びは、いろんなことを試してやってみる要素がありますでしょ。かくれんぼをしていて、ここに隠れたけれども、見つかっちゃったら、次はもっと見つかりにくい場所を探して、「今度はここにしよう」と試すでしょ。この「新しいことを試してみる」という意味での「遊び」も必要ですね。新しいことに挑戦するので、ちょっぴり緊張感もある。しかし、新しいことをしている楽しさ、嬉しさもある。
さらには、遊びの本来の要素とでもいうべき、やることを楽しむ、やることを喜ぶ要素ですね。その意味での「遊び」がきますね。でも、一人で楽しんだり、一人で喜ぶんじゃない。「どうやったら、一緒に楽しめるのか?」、「どうしたら、共に喜べるのか?」。楽しんでみる(見る)、喜んでみる(見る)んです。そうすると、不思議なことですが、本当に一緒に楽しめるんですね、共に喜べるんですね。不思議で面白いですね。
いろんな意味での「遊び」があるから、陽気で楽しいスピリッツは、遊び相手を、自分と同じように肯定し、物事を好転するためにはなくてはならない視点なんですね。