エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

リチュアリゼーションはラトレイア 礼拝なんです

2014-07-11 12:36:44 | アイデンティティの根源

 

 今日から、エリクソンが『エール・レヴュー The Yale Review』1981というエール大学の機関紙に書いた、「ガリラヤの言い伝えと≪私≫という感じ」の翻訳もしたいと思います。

 私もいろいろエリクソンの文書を読んでいますが、この文章ほど大事なのは、最初に翻訳しました、「日々の生活の中の “礼拝” Ritualization in  Everyday Life」位でしょう。

 私は今まで、ritualizationを「儀式化」と訳してきましたが、私のギリシア語の恩師、 武藤陽一先生の文書「『礼拝』とは何か」を繰り返し読みまして、気づきを与えられました。それは、エリクソンの言うritualizationは、まさに、パウロが「ローマ人への手紙」第十二章1節bとc(後半)で言った「礼拝」である、ということです。

それを新共同訳でここに引用しておきましょうね。

「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。

これこそ、あなた方がなすべき礼拝[την λογικην λατρειαν υμων]です」

(文字化け防止で気息記号などは割愛)

 その意味では、エリクソンは、この「神なき時代」に、ボンヘッファーがいう「神のみ前で、神とともに、神なしで生きる」を徹底的に、ハッキリした形で明示し、生きた人だということが、ようやく分かりました。

 散々読んできたエリクソンが、散々読んできたボンヘッファーと、このようにして鮮やかに繋がりましたよ。

 その感激を、その感動を、皆さんにもお分けしますね。

 

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聖書の言葉: 礼拝はプロスキュネオー 霊と真がある

2014-07-11 10:07:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
「真面目なことを愉快に」
  本当のことを言わない組織とは、ハッキリとした意識もないまま、ウソしか言わない組織です。そんな組織に信頼関係も何もあったものではないでしょう。「本当にそんな組...
 

 今日のところで、エリクソンは、「礼拝でやっているのは、人間関係に対して、配慮が行き届いた行動」であると述べています。「気が利いている」、というレベルを超えて、「温もりと悦びに満ちた関わり」なんだと思います。

 ですから、礼拝こそ、「大人になるために通らなくてはならないハシゴ」でもある。

 礼拝と言えば、堅苦しく、形式が決まっているように感じる。しかし、礼拝という生き方は、そこにいる2人が自分たちで決めればいい。ですから自由形式です。しかし、いったん形式を決めたら、しばらくはその形で進める。形式はあるけれども、縛られているというよりは、やるべきことをチャァンとやっているという悦びが優っているでしょうね。イキイキ、ピチピチしているんですね。ですから、基本が、楽しく愉快です。

 礼拝は「大人になるためのハシゴ」ですから、常に上向き、天を目指すんですね。天を目指すオリエンテーションがある以上、そこには、≪超越≫に対するプロスキュネオー、すなわち、畏敬の念を持った生き方が、霊と真を持った生き方が、おのずから生まれますよね。

 

 

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≪真の関係≫にいきる母親は、素敵です

2014-07-11 06:39:26 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 子育ては、最深欲求に応えるほどの、私のない暮らし、すなわち、≪超越≫ができる。

 本日はp48の6行目から。

 

 

 

 

 

 ところが、その子どもは必ず成長します。その子どもは、母親の子宮から、母親の乳房から、卒業しなくてはなりません。母親が子を思う気持ちの本質は、子どもの成長を願うことです。つまりそれは、子どもが自分から巣立っていくことを願うことです。ここが性的に相手を大事にすることと、根っからの違いがあります。性的に相手を大事にすることは、別々だった2人が1つになります。母が子を思う気持ちは、一体だった2人が別々になります。母親は忍耐強くなくてはならないばかりか、その子どもが巣立っていくことを願い、しかも、支援しなくてはなりません。母親が子を思う気持ちが困難に出会うのは、まさにこの段階になってからです。つまり、母親が子を思う気持ちは、私がない、ということと、すべてを与えるけれども、≪真の関係≫にある相手の幸せ以外には、何物も求めない、ということが必要です。自己愛的で、支配的で、強迫的な母親は、子どもが幼い間は、「子どもを大事にする」母親でいることができます。本当に≪真の関係≫に生きる女性ならば、得るよりも与える幸いを知っている女性ですが、子どもか巣立っていく時にも、子どもを大事にする母親でいられます。

 

 

 

 

 自己愛の母親は、子どもを大事にするよりも、子どもを支配する自分が大事です。自己愛の母親は、それだけ他者から大事にされたことがないので、強迫的に自分を「大事」にしたいのです。それが本当に「自分を大事にする」ことにはならないのにもかかわらず。

 ≪真の関係≫に生きる母親は、子どもが「自分を生きる」ことを何よりも大事にします。子どもを大事にするのは、子どもが「自分を生きる」という子どもの最深欲求を満たすためです。それだけ、≪真の関係≫に生きる母親は、他者から大事にされてきて、「自分を生きる」ことがどんなに幸いなこと、悦びに満ちていること、ヌミノースな経験であることを、肌身に感じているからなのですね。

 

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