エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

悦びを生きましょう

2014-07-14 14:25:11 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
運命のおもちゃになる時。 人にとって、何が最も大事なのか?
  遊びが、大人になってからの様々な活動のひな形になっていることを、ハッキリ示してくれました。特に、どういう人をリーダーにするのか? 例えば、頭脳明晰で、信頼...
 

 日常生活の中の礼拝、毎日を生きる中での礼拝、それが今ほど大事な時代は、日本の歴史の中で、かつてない、というのが、私の確信です。

 その礼拝は、陽気で楽しい、が非常に大事になります。ヌミノースな経験です。圧倒的で、同時に、非常に静かな悦び。

 その悦びを、毎日生きましょう!

 

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他者を体験するレベルが、深いのか、それとも、浅いのか?

2014-07-14 10:31:15 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 セックスをする相手を大事にすることは、自己中心、自己愛的であって、≪真の関係≫では決してない。

 p49第三パラグラフ。

 

 

 

 

 

 まず第一に、恋に「落ちる」という爆発的な経験と、見知らぬ2人の間が恋に落ちる瞬間まであった壁が不意に壊れることと混同されます。しかし、すでに申し上げましたように、不意に親しくなる経験は、その本質からして、短命です。見知らぬものがセックスする人になり、もはや乗り越えるべき壁がなくなった後では、到達したい突然の恋も、もはや全くありません。「セックスの相手になった大事な人」は、自分と同じくらい「すでに分かった」ようになります。あるいは、私は、ほとんど知らないといったほうが良いでしょうか。他者を深く体験することがあるとすれば、相手の人格との不一致を感じるならば、「他の人がよく分かる」ということにはならないでしょうに。その壁を乗り越えるという奇跡は、日々新たになるものでしょうに。しかし、ほとんどの人にとって、自分自身は、他の人たちと同様に、すぐに調べあげて、すぐに使い捨てにされます。その人たちにとっては、親しくなるとは、相手とセックスすることです。こういう人たちが、他者から「相手にされない」と感じるのは、物理的に離れ離れになることですから、セックスして体が一つになることが、「相手にされないこと」を克服することになるんです。

 

 

 

 相手を知るレベルで、最も浅いのが、セックスすることで相手を知ったつもりになるレベル。

 相手を知るレベルで、最も深いのが、最深欲求を共有しようとして、それは決してできないと知るレベル。

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「本物」とは?

2014-07-14 05:28:46 | アイデンティティの根源

 

 「本物」と言って思い出すのは、信仰の恩師、西村秀夫です。西村先生の口癖の一つは、間違いなく「本物」でした。

 その中でも、忘れならないのは、西村先生が、先生の信仰の恩師、矢内原忠雄について語る語り口です。西村先生ははじめ塚本虎二先生の集会に出ていたそうですが、矢内原先生の集会にも出るようになった時に、誰かが塚本先生の悪口を言っているのを聞いた矢内原先生が、その悪口を慎むように、「やめなさい」とカミナリを落としたのだそうです。その時に、西村先生が矢内原先生に「『本物』を感じ」て、正式に矢内原集会に参加するようになったという話です。

 この西村先生の言う「本物」と、エリクソンがここで言う「本物 authentic」は同じものだと私は強く感じます。いずれも、ギリシア語のΠιςτιςのことだと考えて間違いありません。そして、Πιςτιςこそは、根源的信頼感でもあるのです(文字化け防止のため、気息記号などを割愛、修正)。

p322第二パラグラフ。

 

 

 

 

 しかしながら、まず初めに「本物」という言葉に異議を唱えなくてはなりません。それは、この言葉が、実際問題、いくつかの言葉の、まことしやかな歴史以上の意味がある場合です。なぜならば、福音書記者が伝える様々な言い伝えが、何となく「ウソくさい」と思われるからです。ところで、四福音書そのものは、創造的な芸術の表現形式ですし、一連の、イキイキ、ピチピチしたエピソードを自由に選んでもいいという自由があるところに特色づけられています。それぞれの福音書は、物語の場の中で、イエスとガリラヤの人々の出会いを描いています。しかし、福音書が紙に書かれたのは、1世紀末ごろ、イエスが死んでから数十年たってからですし、実際問題、紙に書かれた福音書は、イエスが死んだ後に復活した、という光を当てることによって、報告されている言葉を見直しました。そのイエスの言葉は、イエスの伝道の第2の地域、すなわち、ユダヤやエルサレムで報告されたものでした。そのころまでに、福音書の目的は、明らかに、パレスチナ内外で発展するキリスト者グループに、福音に基づく気骨を与えるものでした。そのキリスト者グルーブは、イエスご自身が目の当たりにしたものではありませんでした。こういったキリスト者グループの発展すべては、それ自体の正当性があります。それは、新しい伝統となる儀式と礼拝の形式でしたが、それは、福音書記者個人が体験した啓示の特色にふさわしいものでしたし、当時の社会的傾向にも合うものでしたし、当時の読者の理解力と関心にもふさわしいものでした。このようなあらゆる伝統的な礼拝も、遅かれ早かれ、生命力を失った儀式主義になりやすいのは、私どもが今後繰り返し立ち返る論点です。しかしながら、最初は、このような礼拝すべては、それ独自の歴史的な「本物らしさ」があります。

 

 

 

 形骸化した礼拝も、その最初においては、歴史的な必然性があり、生命力がもともとはあるものなのですね。

 しかし、これは礼拝形式にだけ当てはまるものではありません。あらゆる制度、あらゆる集団にも、当てはまるものでしょう。制度や集団にも、最初はそれが作られた目的やヴィジョンがありました。そこには「制度を作る精神」、「集団が共有するヴィジョン」がもともとはあったはずです。

 いったん制度や集団ができて、その精神、そのヴィジョンを見失う時に、生命力を失うことになるわけですね。

 本物は、精神とヴィジョンが必ず、イキイキ、ピチピチ生きているものです。

 

 

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