「人間を上下2つに分けるウソ」と、内輪とよそ者フリ(仕事)が、役割を果たすことや創造的に演じることにもなり、他方で、自分も他人も、だましたり、誤魔化したりすることにもなる、というエリクソンの主張も...
「仲間内」「内輪」の狂気は、例外なく「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんの仕業です。しかし、「人間を上下2つに分けるウソ」の最大の特色の1つは、その信者さんには、その自覚が全くない、というところにあります。すなわち、「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんは、まさか自分が「人間を上下2つに分けるウソ」を信じ込んでいるなどとは、思ってもいませんでしょ。
日本では、「皆さんご一緒に」という同調圧力が猛烈ですし、むしろ、「人間を上下2つに分けるウソ」が常識として作用していることが多いことから、「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんは、自分のことを「善良な市民」、「一般常識の人」と思っている節がありますね。とんでもないことですね。
昨日のブログで、北海道大学から法政大学教授に変わった、山口二郎さんのコラムを紹介しましたね。様々な分野で「仲間内」「内輪」のロンリが、外側では通用しない狂気になっているということでした。これは多くの学会がそうでしょうね。心理学の分野でも、臨床系以外は、「臨床」の場が大学や研究所に限定されていることが多いので、この傾向が強いといえるでしょうね。それは、大学や学会で言っていることと、日常生活でやっていることが、バラバラ、ということです。当然そこには、ウソとゴマカシがありますでしょ。しかし、その大学の先生は、なぜそうなっちゃうのか? 不問に付して、大学生活と日常生活をバラバラにしていることが、残念ながら少なくないんじゃないかしら? このブログを読んで下すっている大学教員の方々が何人かいることを私は知っていますが、なんなら、このブログにコメントしてくださいね。ましてや、そのことが「狂気」などとは、全くお感じにならないでしょう。「世の中はそうなってるのよ」ということでしょうね。
私は敢えてハッキリと申し上げるのですが、「学会で言っていることと、日常生活でやっていることがバラバラなのは、言葉の至極正確な意味で『狂気』そのものです」、と
なぜなら、狂気は心がバラバラであることだからですし、また狂気は「悪魔」のなせる業と考えられていますが、この悪魔の原語「ディアヴォロス διαβολος」は、「2つにバラバラに投げるもの<悪口を言うもの」だからですよ。