エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「人間を上下2つにバラバラにするウソ」は、いまの日本でも、諸悪の根源

2014-07-21 13:13:20 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
「人間を上下2つに分けるウソ」と、内輪とよそ者
  フリ(仕事)が、役割を果たすことや創造的に演じることにもなり、他方で、自分も他人も、だましたり、誤魔化したりすることにもなる、というエリクソンの主張も...
 

 「仲間内」「内輪」の狂気は、例外なく「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんの仕業です。しかし、「人間を上下2つに分けるウソ」の最大の特色の1つは、その信者さんには、その自覚が全くない、というところにあります。すなわち、「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんは、まさか自分が「人間を上下2つに分けるウソ」を信じ込んでいるなどとは、思ってもいませんでしょ。

 日本では、「皆さんご一緒に」という同調圧力が猛烈ですし、むしろ、「人間を上下2つに分けるウソ」が常識として作用していることが多いことから、「人間を上下2つに分けるウソ」の信者さんは、自分のことを「善良な市民」、「一般常識の人」と思っている節がありますね。とんでもないことですね。

 昨日のブログで、北海道大学から法政大学教授に変わった、山口二郎さんのコラムを紹介しましたね。様々な分野で「仲間内」「内輪」のロンリが、外側では通用しない狂気になっているということでした。これは多くの学会がそうでしょうね。心理学の分野でも、臨床系以外は、「臨床」の場が大学や研究所に限定されていることが多いので、この傾向が強いといえるでしょうね。それは、大学や学会で言っていることと、日常生活でやっていることが、バラバラ、ということです。当然そこには、ウソとゴマカシがありますでしょ。しかし、その大学の先生は、なぜそうなっちゃうのか? 不問に付して、大学生活と日常生活をバラバラにしていることが、残念ながら少なくないんじゃないかしら? このブログを読んで下すっている大学教員の方々が何人かいることを私は知っていますが、なんなら、このブログにコメントしてくださいね。ましてや、そのことが「狂気」などとは、全くお感じにならないでしょう。「世の中はそうなってるのよ」ということでしょうね。

 私は敢えてハッキリと申し上げるのですが、「学会で言っていることと、日常生活でやっていることがバラバラなのは、言葉の至極正確な意味で『狂気』そのものです」、と

 なぜなら、狂気は心がバラバラであることだからですし、また狂気は「悪魔」のなせる業と考えられていますが、この悪魔の原語「ディアヴォロス διαβολος」は、「2つにバラバラに投げるもの<悪口を言うもの」だからですよ。

 

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自分に大甘な気持ち は大迷惑

2014-07-21 10:39:31 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 セックスの相手を大事にする気持ちも、相手を本気で大事にしたいと思ったら、≪真の関係≫になる。福音ですね。

 今日から自分に甘い気持ちです。p53第三パラグラフ。

 

 

 

 

 

 自分に大甘な気持ち13


 

フットノート13:

ポール・ティーリッヒによれば、『牧会心理学』(9,1955)で『正気の社会」のレヴューする中で、「自分に大甘な気持ち」というようなあいまいな言葉をふと言葉にすることはよりいいし、この言葉の代わりに、「自然に自分をよしとする気持ち」だとか、「矛盾した、自己受容」だとか、と言い換えたほうが良い、ということです。私は、このティーリッヒの教えの良さをできるだけ認めるとしても、私はこの提案に賛成できませんね。「自分に大甘な気持ち」ということばには、自分に大甘な気持ちにある矛盾する要素がハッキリ含まれます。≪真の関係≫は、自分も含めたあらゆる対象に対して、態度が変わらない、という事実を表現しています。忘れてはならないのは、「自分に大甘な気持ち」とは、ここで使われている意味においては、歴史がある、ということです。聖書が「自分に大甘な気持ち」について物語るのは、聖書が「自分自身を大事にするように、あなたの隣人を大事にしなさい」と命じる時ですし、マイスター・エックハルトが全く同じ意味で「自分に大甘な気持ち」について語るときです。

 

 

 

 

 今日は珍しく、フットノート 脚注のみです。ポール・ティーリッヒと言えば「存在への勇気 The Courage to Be 、』でしょうね。でも、フロムが参考にしたのが『牧会心理学』という雑誌の方です。≪真の関係≫ならば、その相手によって自分の態度は変わりません。しかし、「自分に大甘な気持ち」は、特別に自分に対してだけ、甘いんですね。しかも、その自覚が全く0、というのが特色でしょう。そうなると、激しい投影が、日常生活を支配するのは、火を見るよりも明らかです。

 ヤキモチ、パワハラ、いじわる、やっかみ、誤解と曲解、いじめに感情丸出し、ぶりっ子、ウソとゴマカシ…。近くの人に大変迷惑な人であることは、間違いありません。

 

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天にも昇るほどの悦びの体験

2014-07-21 06:18:16 | アイデンティティの根源

 

 イエスがガリラヤで伝道を始めたのは、強国ローマに支配され、その支配を跳ね返そうという反乱が挫折した時代でした。パレスティナは、熱心党というテロリスト集団の温床になるような地域であり、時代であり、一言で表現すれば、息詰まりの時代だったのです。

 みんなが≪救い主≫の到来を願っていたのです。それは自分が肯定してもらうことを基本としながら、新しい生きがいのある生き方のヴィジョンの再生を予感させるものでなくてはなりません。

 それは今の日本でも全く違いはないのですね。

  p325の15行目の途中から。

 

 

 

 

 四つの福音書は、過去に遡ってみる時には、伝道が持つ社会的雰囲気を、その福音書ならではの描き方をしています。福音書が描くのは、イエスとその弟子たちが安息日にその地方をゆっくりと歩き回ることであったり、「仕事の日」には、山に登り、村に下ることであったり、村々に出入りしては、近隣の田舎に向かうことがあったりして、自分の故郷のナザレに近づくと、自分が伝道するには、その信頼が当てにならなすぎると分かるということでした。そして、そこにはいつでもガリラヤ湖がありました。穏やかな日には、イエスは船に乗り、浜の民衆に向かって、話をしました。あるいは、イエスは、自分に従ってきた何千人もの人々に食事を供します。あるいは、嵐の日には、嵐によって別の奇跡が起きました。このようにして、癒しと教えは、イエスは、つねに多くの群衆がつき従っていました。その中には税金取りや風俗で働くものも含まれていました。その人たちは、イエスじゃなければ、相手にされない人たちだった、かもわかりません。

 

 

 

 

 イエスの福音に接した人は、社会の底辺の人でした。それは、民族を裏切ってローマのために税金を取っているけれども、みんなから軽蔑されている税金取りや、生活のために風俗で性を売る女たちで、当時は今以上に軽蔑されている女たちでした。社会の底辺で苦しい生活をしていただけでなくて、社会的にも虐げられていた人々。このように救いを求めていた人々のところに、イエスは自ずから、イエスの福音を運んだのです。「あなたはすでに救われています」と。

 それは、天にも昇るほどの悦びに溢れている体験だったことは、間違いありませんよね。

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