エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

定時で帰るのが、ウシロメタイあなたへ

2014-07-26 14:19:06 | エリクソンの発達臨床心理


日常生活の儀式化と「不思議!」

2013-07-26 03:54:19 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンは、日常生活の儀式化は、日常生活に対する1つの見方であり、通常、正しい振る舞い方としてしか、経験されない、といいます。日常生活の儀式化は、当たり前すぎることなので、意識せずにいることがどうしても多くなるわけです。

 それにしてしも、その儀式化が、過去をよく見ることを、ある種の口伝の幻想のレベルまで引き上げるのは、いったい何故なんでしょうか?


 今の日本も全体主義なんですね。

 こう申し上げると、驚かれるかもしれません。あるいは、安部晋三首相とその一味のことだ、と感じる方もあるでしょう。そうではないんですね。先日のNHKの「丸山眞男と政治学者たち」を見て、丸山眞男教授も読みなおそうと思いました。

 丸山眞男教授による、狂気の戦争遂行を行った権力分析は、残念ながら、そのほとんどが今もそっくりそのまま当てはまってしまうんですね。ですから、80年前の日本の権力が構造的に全体主義であったのと同様に、今現在の日本の権力も、構造的に全体主義なんですね。

 「超国家主義の論理と心理」を読み直しているところですが、「あぁ、なるほどね」と感じたところの一つは、『丸山眞男集』第3巻p22の「イデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけでなく、日本の国家構造そのものに内在していた。したがって、私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何ほどかのうしろめたさを絶えず伴っていた」(傍点の代わりに下線とした)という件です。これはまさに今の日本にも残っているなぁと。

 すなわちこうです。女性が家庭と仕事のバランスを取って生きるためには、女性が定時で帰れることが非常に大事な条件になるわけですね。ところが、定時で帰ることに「うしろめたさ」を感じる場合が、圧倒的に多いし、また感じるウシロメタサも、圧倒的に強いのはなぜでしょうか?

 それは、憲法13条で、「すべて国民は、個人として尊重される」と謳われているのにもかかわらず、いまだに職場では、戦時下同様の全体主義が生きているからでしょう。会社やお役所や学校などの組織を超越する、普遍的な価値を認めないからですね。

 私どもは夏に向かって、戦争を反省する時期がまた、やって来ます。その際に、戦争は悲惨だと感じるだけじゃぁ、全く足りないですね。今!、ともっと結びつけて考えなきゃぁ。それは、今申し上げたような組織を遥かに越えた価値、すなわち、憲法が保障している様々な基本的人権を 人間として正しいあり方を、日々の暮らしに生かすことでしょ。その自覚で、日々を意識的に、暮らしを営んでいけば、定時で帰ることがウシロメタイあなた! あなたも平常心で、定時で帰れるようになりますからね。

 

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内面力が試される、人を大事にすること

2014-07-26 10:51:08 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 相手を大事にすることは、自分を大事にすることと同じことなんですね。

 p55の第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 誰かを大事にすることは、人を大事にする力を具体的に体現することですし、人を大事にする力に集中することです。≪真の関係≫にある相手を肯定するという根源的な力は、人間の本質を体現するものとして、大事にする人に直接向かいます。一人の人を大事にすることは、ありのままの相手を大事にすることなんですね。一種の「分業」は、ウィリアム・ジェームズがそう呼んだものですが、人が自分の家族を大事にする、その分業は、「見知らぬ者」に対する気持ちを持たずに、人を大事にすることができない印です。人間がいただいている人を大事にする気持ちは、そう誤解されることも多いんですが、特定の誰かさんを大事に思う気持ちの後からやってくる放心状態なんぞではなくって、特定の人を大事にする中で遺伝的に獲得された、人を大事にする根拠なんですね。

 

 

 

 

 人を大事にすることは、人間的な根源的な力を体現すること。

 人を大事にすることは、分業ではできないこと。

 人を大事にすることは、具体的に特定の相手を大事にする中で培われる力を、再び体現すること。

 

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触れる事の不思議

2014-07-26 06:08:52 | アイデンティティの根源

 

 これだけウソとゴマカシが瀰漫している日本は、信頼する力が極端に落っこちているんですね。一人びとりの日本人が、です。日本人は、倫理を内面化するのが、弱い。倫理は世間の眼以上のものはないから、「ばれなきゃいい」ということになりがちです。そうすると、「ずるいやり方でも、儲かりゃいい」となるでしょう。そのなれの果てが今の日本ですね。

 p327の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 聖マタイのように、福音を語る形は、一方通行かも分かりませんが、イエスが伝道する際には、ガリラヤで出会った多様なグループの人々に幅広く話しかけることと、しかしそれにもかかわらず、それぞれの出会った人の、潜在的に、相手になることを、両方していることを伝えているんですね。こういう組み合わせをする時、一つの場面が際立ってくるんです。その場面とは、私は精神分析家として、私は、ジェファーソン講座で引用してもいいと感じた場面ですが、ジェファーソンは、この場面を、ジェファーソンか「本物」としたデータからは除外していたものなんで、引用したんです。その場面とは、12年間も出血が続いている女性で、しかも、医者に全財産を取られたのに、全く役に立たなかった、そんな女性の物語です。イエスの周りを取り囲んだ大群衆の中から、イエスはその女性を見つけ出しますが、その女性は敢えてイエスに近づこうとはしませんでしたし、あるいは、そうすることは実際にはできなかったのですが、しかし、イエスの背後からその女性は押し寄せて、イエスの服に触れました。

 

 

 

 

 昨日のNHKスペシャルで、認知症対策の番組をやっていましたが、ご覧になった方もおられるだろうと思います。その中で、ユマニチュード(Humanitude)と呼ばれる、介護の基本的な態度が紹介されていました。ユマニチュードは、human attitude を一つの単語に合成した言葉だろうと思われます。文字通り、認知症の相手を人間として認める関わり方を言うのですね。

 このユマニチュード、見つめる、話しかける、触れ合う、という至極当たり前のことを、意識的にするんです。しかし、当たり前のことを意識的にすることこそ、スポーツから芸術まで、あらゆる技術の基本です。ユマニチュードも、見つめる、話しかける、触れ合う、という当たり前のことを、意識的にすることが、認知症の相手を人間として認める関わりに繋がっているんですね。

 この触れることが、相手を人間として認めることに繋がる、といのうが、長血の女がイエスの服に触れることと通じます。不思議ですね。

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