日常生活の儀式化と「不思議!」
エリクソンは、日常生活の儀式化は、日常生活に対する1つの見方であり、通常、正しい振る舞い方としてしか、経験されない、といいます。日常生活の儀式化は、当たり前すぎることなので、意識せずにいることがどうしても多くなるわけです。
それにしてしも、その儀式化が、過去をよく見ることを、ある種の口伝の幻想のレベルまで引き上げるのは、いったい何故なんでしょうか?
今の日本も全体主義なんですね。
こう申し上げると、驚かれるかもしれません。あるいは、安部晋三首相とその一味のことだ、と感じる方もあるでしょう。そうではないんですね。先日のNHKの「丸山眞男と政治学者たち」を見て、丸山眞男教授も読みなおそうと思いました。
丸山眞男教授による、狂気の戦争遂行を行った権力分析は、残念ながら、そのほとんどが今もそっくりそのまま当てはまってしまうんですね。ですから、80年前の日本の権力が構造的に全体主義であったのと同様に、今現在の日本の権力も、構造的に全体主義なんですね。
「超国家主義の論理と心理」を読み直しているところですが、「あぁ、なるほどね」と感じたところの一つは、『丸山眞男集』第3巻p22の「イデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現われ来たったわけでなく、日本の国家構造そのものに内在していた。したがって、私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何ほどかのうしろめたさを絶えず伴っていた」(傍点の代わりに下線とした)という件です。これはまさに今の日本にも残っているなぁと。
すなわちこうです。女性が家庭と仕事のバランスを取って生きるためには、女性が定時で帰れることが非常に大事な条件になるわけですね。ところが、定時で帰ることに「うしろめたさ」を感じる場合が、圧倒的に多いし、また感じるウシロメタサも、圧倒的に強いのはなぜでしょうか?
それは、憲法13条で、「すべて国民は、個人として尊重される」と謳われているのにもかかわらず、いまだに職場では、戦時下同様の全体主義が生きているからでしょう。会社やお役所や学校などの組織を超越する、普遍的な価値を認めないからですね。
私どもは夏に向かって、戦争を反省する時期がまた、やって来ます。その際に、戦争は悲惨だと感じるだけじゃぁ、全く足りないですね。今!、ともっと結びつけて考えなきゃぁ。それは、今申し上げたような組織を遥かに越えた価値、すなわち、憲法が保障している様々な基本的人権を 人間として正しいあり方を、日々の暮らしに生かすことでしょ。その自覚で、日々を意識的に、暮らしを営んでいけば、定時で帰ることがウシロメタイあなた! あなたも平常心で、定時で帰れるようになりますからね。