エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

なんで、今の日本には、こんなにウソとゴマカシが溢れているのか?

2014-07-27 14:54:37 | エリクソンの発達臨床心理

 

 


儀式化 ≠ 神経症(不安障害)!?

2013-07-27 01:37:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日常生活の儀式化には、「不思議な感じ a sense of wonder」を排除するのではなく、包み込む「神話の知」、物語が必要みたいですね。

 最近、毎回載せている““をご覧になって、「不思議な感じ a sense of wonder」を感じませんでしょうか? その形、その色、ミツバチなど他の生き物と「共にある」感じ、季節になると、だれが見ていなくとも、だれに誉められずとも、必ず咲く姿の立派さ、などなど・・・。

 もっと、「不思議な感じ a sense of wonder」を実感したいと思うのであれば、実際に森に出かけましょう!  あるいは、レイチェル・カーソンの本  A sense of wonderをじっくり読んでみてください。 英文の方が、本が大きくて、写真もいいと思います。上遠さんが翻訳した新潮社の『センス・オブ・ワンダー』でも構いません。

 


 儀式と言えば、「手洗い」を果てしなく繰り返す「儀式」の病気、強迫神経症を思い出す方も少なくないでしょう、しかし、ユーロック・インディアンがする儀式は、自分たちの暮らしの中での様々な活動、サケを取る仕事、食事の仕方、などを、正しいやり方としてひとまとめにするだけではなくて、ユーロック・インディアンの人たちが、自分や民族集団を超える価値、≪超越≫を含む「共に見る」世界に対する見方にもなっています。毎日をイキイキ、ピチピチ生きていくために、なくてはならない礼拝です。

 丸山眞男教授は、狂気の戦争遂行した権力を分析する中で、日本のナショナリズムが、ウルトラなのは、国家が「真善美の極地」という価値の内実を独占したことにある、と指摘しています。早い話が、国家=神なんですね。普通、「近代国家」といえば、そう言う価値の内実には中立を守り、個人や宗教にゆだねるのに、日本の国家だけは、価値の内実を独占したところに、ウルトラを見ているわけです。「真善美」という価値の内実を独占した国家は、何をやってもそれは「真善美」ということになる、というところが、まさにウルトラなわけですね。こうなると、「いかなる暴虐なる振舞も、いかなる背徳的行動も許容されるのである!」(『丸山眞男集』第3巻、p25)ということになってしまいます。南京大虐殺をやっても、朝鮮や中国やオランダの人々を強制労働に動員することも、「真善美」になっちゃうんです。日本の国家は、このように、めちゃくちゃだから、ウルトラなんですね。

 今の日本はそこまでひどくないんじゃないのかな? と楽観主義の人もいることでしょう。しかし、会社や役所や学校などの集団が、ウソとゴマカシに溢れだヤバいことだらけなのは、なぜでしょうか? そういう集団を超越する価値を、私どもは日々実感しながら、その組織の中で暮らしているでしょうか? それは端的に示すのは、自分の所属集団が、今申し上げた、ウソとゴマカシだらけのことをやった場合、「NO! ノー!」と果たしてどれだけの人が言えるか? 「ここ」でしょうね。

 自分が損することをしないのが、イマドキの日本人の行動バターンですから、「NO」とは言わないことが圧倒的多数でしょうね。ですから、これだけ日本には、ウソとゴマカシだらけの商品、サービス、お役所仕事が溢れているんですね。

 やっぱり、宮田光雄先生の『われ反抗す、ゆえにわれら在り――カミュ『ペスト』を読む (岩波ブックレット) [単行本(ソフトカバー)] 』を も一回読まなきゃぁ。

 

 

 

 

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すべては、自分を大事にすることから。

2014-07-27 10:05:56 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 人を大事にすることの根源は、関係に忠実であろうという≪真の関係≫なんですね。

 p55下から2行目から。

 

 

 

 

 

 このことから、自分が大事にするもう一人の相手と同じくらい、自分自身を大事にしなくちゃいけません。自分自身が生かされていること、自分が幸せなこと、自分が成長していること、自分にゆとりがあること、これらを肯定することが、自分が≪真の関係≫をやれるゆとりになります。この≪真の関係≫とは、弱い立場の人を世話すること、弱い立場の人を個として認めること、弱い立場の人を尊重すること、弱い立場の人の声にならない声に応えること、弱い立場の人を謙虚な気持ちで理解することです。1人の個人が、豊かに≪真の関係≫を結ぶことができるのならば、自分自身も大事にできます。1人の個人が、他者としか≪真の関係≫を結べなければ、その人は全く≪真の関係≫を結ぶことはできないんですね。

 

 

 

 

 自分を大事にできないと、人を大事にすることはできません。自分を大事にできない人ほど、甘ったれ。フロムが今日のところでハッキリ言っている通り、他者しか大事にできない、と言えば、その人はだーれも大事にできるはずがありません。自分を大事にできていないからです。

 自分を大事にすることが、有徳であるのは、自分を大事にすることこそ、すべての基い、すべての始まりだからです。

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触れるのは、信頼の証拠

2014-07-27 06:07:43 | アイデンティティの根源

                      下記の女の子お手製のストラップ、ゲット

 意識的に触れることには、相手を大事にすること、一人の人間として認めることにもなる。それは心を込めた、優しいタッチ、ストロークになることでしょう。しかし、意識せずに触れれば、それはデタッチメント、離れ離れになることにも通じますし、打つという意味でのストロークにもなる。触れるという何でもないことが、実に様々な不思議な働きをすることが、お分かりだろうと思います。

 昨日、この春まで面接していた女の子のママから、「『エリクソンの小部屋』を分かりやすくしてほしい」と教えていただきました。ありがとうございます。「むずかしいことをやさしく、やさしいことふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと」という、井上ひさしさんの座右の銘は、「エリクソンの小部屋」の方針ですから、やさしく、分かりやすく記していきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 p327の、「マルコによる福音書」第五章の引用部分から(原文では、文字のポイントが小さくなっていますが、この翻訳では、同じポイントで記します)。

 

 

 

 

 

 すぐに、その女性の出血が止まりました。その女性は、自分がその長血の病から癒されたことを身体に感じました。そして、イエスは、すぐに、力が自分の中から出ていくのを内側で感じて、押されたあたりを振り返って、言いました。「私の服に触ったのは誰ですか?」と。弟子たちはイエスに言いました。「ご覧になればお分かりの通り、たくさんの人たちがあなたの周りに群がっているんです。それでも『私の服に触ったのは誰ですか?』と訊くんですか?」と。イエスはあたりを見渡すと、この女性が自分に触れたことが分かりました。でもその女性は怖くなって、震えていたんです。自分の身に起こったことが分かったからです。イエスのもとに来て、イエスの前で倒れこみました。そして、イエスに本当のことをすべて包み隠さず話したのでした(「マルコによる福音書」第五章29-34節)。

 ここから、イエスが、大群衆の中から、自分に触れるために歩み寄ってきた1人の人を選んで、応えているのが分かります。次にイエスがその女性に言ったこと、それこそ、皆さんにとって、全く新しい課題の扉を開くものでしょう。

 

 

 

 

 長血の女は、12年間も苦しんだ病気が、イエスの服に触れることで一瞬で治ったことを知り、恐れおののきます。この女性が医者に全財産をつぎ込んでも治らなかった時のことを想像できるでしょうか? それはとても想像できることではないのかもしれませんね。

 それでも、触れるだけで癒された。12年間人に裏切られても、イエスなら、何とかしてくれるかもしれない、と信頼していたからでしょう。イエスには失礼かもしれませんが、わらをもつかむ思いだったかもわかりません。それにもかかわらず、彼女が、イエスへの信頼は、失っていなかったことだけは、確かでしょう。そのように申し上げて差し支えない、と考えるのは、彼女からイエスに歩み寄り、イエスに触れた、という事実が、その女性のイエスへの信頼を物語っている、と感じ取ることができるからです

 

 

 

 

 

 

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