治療的儀式化=新しい儀式化→新たな物の見方・価値の創造
エリクソン自身が礼拝について、まとめの記述をしてくれていたことは、本当にありがたいことでした。礼拝のまとめのついての、どの記述も大切なことです。ここで確認しておきたいことは、礼拝とやり取りはほぼ同義語ですし、お互い価値を認め合い、助け合い、補い合う関係も同様である、ということです。
今日は礼拝のまとめの続きで、癒しの礼拝の話です。
今日のタイトルは、「≪いまここ≫を生きる現代の礼拝」です。
それで、「『礼拝』とは何か」と題する、ギリシア語の恩師、テコア聖書集会の武藤陽一先生の文書を読み直してみました。
「礼拝」と日本語聖書で訳されている言葉には3つあるそうです。1つは「レイトゥールゲオー λειτουργεω」で、もともとは「公共に奉仕する」という意味で、そこから転じて「礼拝する」という宗教行事にも転用されるようになった、ということです。ですから、「礼拝する」と言ってもそこには、「公共に奉仕する」という意味が残っているはずですから、1人の礼拝というよりも、何人かで「共に見る」礼拝が基本形になることでしょう。
2つ目は、「礼拝する」に最も多用される言葉で、「プロスキュネオ προσκυνεω」です。「ブロス προσ」が「何かに向かって」という意味で、「キュネオー κυνεω」が「キスする」という意味ですから、自分や所属集団を≪超越≫するものに対して「平伏して敬意を表す」という意味になるようです。これは、「ヨハネによる福音書」第4章24節で、「神を礼拝するものは、霊と真実をもって、礼拝しなければならない」で使われている「礼拝する」に出てくるようです。キリスト教の神様は、現在進行形ですから、その「礼拝」は、必ず、≪いまここ≫をイキイキ、ピチピチ生きることに繋がります。そのようにして生きることが「礼拝する」ことになるんですね。ある形、ある場所、ある時間でやるものが「礼拝」じゃぁ、ないんですね。
3つ目が「ラトレイア λατρεια」です。もともとは「仕える」という意味だそうです。それは、犠牲のヒツジを捧げるののではなくって、自分の体を使った、生き方の中に現れる「礼拝」です。武藤先生は、この典型例として、「ローマ人への手紙」第12章1節の「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」を取り上げておられました。
それは自分の頭で考えて、自分も大事にすると同時に、人を自分と同様に大事にする生き方、それも陽気で楽しい、悦びに満ちた生き方に繋がります。これこそが、「≪いまここ≫を生きる現代の礼拝」です。そして、この礼拝は、現代日本の重病を直すために、必要不可欠な「治療的礼拝」でもあるんですね。