エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

≪いまここ≫を生きる現代の礼拝

2014-07-30 12:19:58 | エリクソンの発達臨床心理

 


治療的儀式化=新しい儀式化→新たな物の見方・価値の創造

2013-07-30 03:06:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソン自身が礼拝について、まとめの記述をしてくれていたことは、本当にありがたいことでした。礼拝のまとめのついての、どの記述も大切なことです。ここで確認しておきたいことは、礼拝やり取りはほぼ同義語ですし、お互い価値を認め合い、助け合い、補い合う関係も同様である、ということです。

 今日は礼拝のまとめの続きで、癒しの礼拝の話です。


 今日のタイトルは、「≪いまここ≫を生きる現代の礼拝」です。

 それで、「『礼拝』とは何か」と題する、ギリシア語の恩師、テコア聖書集会の武藤陽一先生の文書を読み直してみました。

 「礼拝」と日本語聖書で訳されている言葉には3つあるそうです。1つは「レイトゥールゲオー λειτουργεω」で、もともとは「公共に奉仕する」という意味で、そこから転じて「礼拝する」という宗教行事にも転用されるようになった、ということです。ですから、「礼拝する」と言ってもそこには、「公共に奉仕する」という意味が残っているはずですから、1人の礼拝というよりも、何人かで「共に見る」礼拝が基本形になることでしょう。

 2つ目は、「礼拝する」に最も多用される言葉で、「プロスキュネオ προσκυνεω」です。「ブロス προσ」が「何かに向かって」という意味で、「キュネオー κυνεω」が「キスする」という意味ですから、自分や所属集団を≪超越≫するものに対して「平伏して敬意を表す」という意味になるようです。これは、「ヨハネによる福音書」第4章24節で、「神を礼拝するものは、霊と真実をもって、礼拝しなければならない」で使われている「礼拝する」に出てくるようです。キリスト教の神様は、現在進行形ですから、その「礼拝」は、必ず、≪いまここ≫をイキイキ、ピチピチ生きることに繋がります。そのようにして生きることが「礼拝する」ことになるんですね。ある形、ある場所、ある時間でやるものが「礼拝」じゃぁ、ないんですね。

 3つ目が「ラトレイア λατρεια」です。もともとは「仕える」という意味だそうです。それは、犠牲のヒツジを捧げるののではなくって、自分の体を使った、生き方の中に現れる「礼拝」です。武藤先生は、この典型例として、「ローマ人への手紙」第12章1節の「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」を取り上げておられました。

 それは自分の頭で考えて、自分も大事にすると同時に、人を自分と同様に大事にする生き方、それも陽気で楽しい、悦びに満ちた生き方に繋がります。これこそが、「≪いまここ≫を生きる現代の礼拝」です。そして、この礼拝は、現代日本の重病を直すために、必要不可欠な「治療的礼拝」でもあるんですね。

 

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親愛なる友よ! 自分を大事にすることは、自己中とは正反対

2014-07-30 10:55:27 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 自己中人間は、≪真の関係≫を結べないから、自己中なのか? 自己中人間は、自己中だらか、≪真の関係≫を結べないのか? まるで、シェークスピアですね。

 今日は、p56の14行目途中から。

 

 

 

 

 

これって、他者への関心と、自分への関心は、両立できないってこと? 自己中と自分を大事にすることが同じことなら、確かにそうでしょう。しかし、この(二つが同じという)前提が間違いです。この間違いのために、私どもは、この課題に関して間違った結論をたくさん出しちゃうんですね。「自己中と自分を大事にすることは、同じどころじゃない、実際は、正反対です」。自己中人間って、あんまり自分を大事にしないことじゃなくって、ちょっとも自分を大事にしないんですね。自分のことを好きじゃないし、自分の世話することもなければ、それは、何かを創り出せないことを示す唯一のことですが、そういう人は空しく、不満タラタラです。そういう人は、ハッピーではありえませんし、日々の暮らしに満足を得られないのじゃないのかと心配です。そういう人は自ら満足することを拒んでいるんですね。この手の人は、自分を大事にし過ぎているように見えます。でも実際は、本音の自分を大事にすることができずにいることを取り繕い、補おうという、できない相談をしているだけなんですね。フロイトは自己中人間は自己愛的だと考えました。フロイトは、自己中人間は、まるで、他者との≪真の関係≫に臆病で、自分を大事にしているかのように考えました。「本当のところは、自己中人間は、他者を大事にできないだけじゃぁなくって、自分自身も大事にできないんです」。

 

 

 

 

 

 私の友人に、心理学を大学院で教えている人がいます。なのに、自分の子どもを大事にできないみたいなんですね。美味しいものを一緒に食べたり、公園にお出かけしたりはしています。しかし、どうやら「心ここにあらず」なのかしらね。顔がいくら笑ってても、眼がキラキラしてないんですからね。自分が自分さえ大事にできない、ということに、まだ気づいていない、いや、半分気付いているんですが、そこを覗くことを恐れているんでしょうね。

 でも、そこを明らかに見つめてみることが、自分を大事にする、はじめの一歩なんですけれどね。親愛なる友よ!

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≪いまここ≫がイメージに結びつくときにいただく、生きる悦び

2014-07-30 05:12:58 | アイデンティティの根源

 

 ≪私≫は、≪いまここ≫を生きることができると、それはすなわち、イキイキ、ピチピチ生きていることなんですね。多くの場合、多くの人が、知らず知らずのうちに過去に囚われて(過去に体験したことにベッタリくっついた激しい怒りなどが、無意識裏に≪いまここ≫に出てきて)、≪いまここ≫を、≪いまここ≫を≪共にする≫相手と生きることができないんですね。あるいは、多くの人が、多くの場合、将来を悲観して、予期不安に囚われて、≪いまここ≫を、≪いまここ≫を≪共にする≫相手と生きることができない。いずれにしても、それはそれは、とっても残念なことですね。真の意味で≪私≫を活かして生きることができないからですね。だから、腹の底から悦べない。

 今日は、p329の4行目から。

 

 

 

 

 

 

 ガリラヤの言い伝えに、歴史的場から近づくためには、しかしながら、当時のガリラヤの時代と場所を、≪超越≫しなくちゃなりません。ガリラヤは、その田舎、その海辺の狭さの中にありましたが、それにもかかわらず、エルサレムに通じる幹線道路上にあり、ヘレニズム世界やローマにも通じていたことを記してきましたね。私どもは、この幹線道路を伝ってユダヤの首都まで行って、ユダヤの地を、より広い世界にする歴史のいくばくかを考えなくちゃなりません。それから、私どもは、人間的な≪私≫という課題に、過去の歴史や現代の歴史的変化が示す、世の中に対するイメージが大事であることとの関係の中で、あっちでもこっちでも、近づかなくちしゃぁ、なりません。

 

 

 

 

 ≪私≫が、人々が共有する、世の中に対するイメージと結びつきを深める時に、イキイキ、ピチピチしていけるんですね。その「人々が共有する」といった時の「人々」が、「人間皆兄弟」に至るほど広ければ広いほど、イキイキ、ピチピチできるんです。すくなくとも、自分と自分の所属集団を遥かに超えている必要がありますから、日本人には苦手なこの点にご注意くださいね。

 

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