エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

奇跡 ―ミラクル―

2014-11-09 13:41:23 | エリクソンの発達臨床心理

 

 奇跡 ―ミラクル―、と書いて、お気づきの方もあるでしょう。長田弘さんの詩集のタイトル。

 「奇跡」と言ったら、「めったにない稀有な出来事」と思いますよね。ですからそういう出来事に遭遇したら、「ラッキー」だと誰でも思うことでしょう。ですから、「奇跡」は「ラッキー」と結びついています。聖書で「奇跡」といえば、「神癒」、「医者も治せないような病気が、一瞬にして治りました」という物語を思い出すのかもわかりません。でも、長田弘さんによれば、「奇跡」というのはそんな特別な出来事じゃぁない。 

 長田弘さんにとって「詩を書く」とはどういうことなのだろうかな?

 それはね。

 「じぶんを呼び止める声を書き留めて、言葉にする」こと。

 あれあれっ、どこかで聞いたことあるかな?

 そう、五嶋みどりさんが言ってましたっけ。

 「自分の中から聴こえる音を」「素直に出す」っとね。

 「声」や「音」が聴こえてくるんですね。

 では、「奇跡」って何でしたっけ?

 たとえば、赤ちゃんの「小さな微笑み」が「奇跡」。

 「小さな微笑み」を見れば、どなたでも「あたたかみ」を感じるでしょ。

 「奇跡」。それはそういう感じ方を「促す心の働きの端緒、いとぐちのなるもの」

 ですから、「奇跡」とは

 「ささやかな日常の光景の中」にあるものに「何か」を感じ取る感性、…。

 

 

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公平の原理だけだと、他者感覚は弱まっちゃう

2014-11-09 10:46:35 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 

 公平であることは、人を大事にすることではない、ということでしたね。

 p120第3パラグラフ。

 

 

 

 

 

 しかしながら、ここで大事な問いが出てきます。社会的組織、経済的組織全体がそのそれぞれの組織自体の利益を求める事に基づいているとするなら、そのそれぞれが、公平の原理だけが調整した利己主義によって治められているなら、ビジネスはどうやったらいいのでしょうか? 既存の社会の枠組みの中でどのように活動しながら、人を大事にするのでしょうか? 公平の原理だけなら、最も貧しい人たちの暮らしに対する世俗的な関心や分かち合いすべてをあきらめることを意味するのではないのかな? こういった問いが、根源的なやり方で、問われ、答えが与えられたのは、、キリスト教の修道士やら、トルストイ、アルベルト・シュヴァイツェル、シモーヌ・ヴェイユのような人たちによってでした。

 

 

 

 

 

 公平の原理だけだと、そこから出てくるのは、「自己責任」という話くらいでしょうね。貧乏でも、自殺しても、子どもが「悪い子」でも、「自己責任」。「あの人たちがいけないんで、私には何のかかわりもございません」「ご近所には来ないでね」くらいでしょうね。

 公平の原理で対処できるのは、人間の生活のごく一部。それは市場で取引されるものが、ごく一部であるのと一緒です。宇沢弘文教授がかねてから主張しているように、社会的公共資本、教育、福祉、医療などは市場原理に任せてはならないんですね。それらは、人間らしい暮らしにはなくてはならないからです。

 ですから、公平の原理は、それが適応可能な狭い領域に限定しないといけない。そうでないと、人間らしい暮らしが壊されるばかりではなく、人間らしい暮らしを支える基本的視点、人権の視点や、他者感覚までも、失うことになっちゃうからですね。

 

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黄金律の新しさ

2014-11-09 06:12:07 | エリクソンの発達臨床心理

 

 さあ、エリクソンが黄金律とやり取りについて、どういうことを教えてくれるのか、実に楽しみですね。

 p219 本文冒頭から。

 

 

 

 

 

 1つの講義が発表されるとき、その表題が、内容を良く伝えているとは期待しないのが普通です。でもね、表題が、この講義の招待状の表題くらい、ハッキリしないのは珍しいでしょう。というのも、新しい気付きがもたらされ、新しい気付きが黄金律という古い行動原理に新たな光を当てる分野が、表題にハッキリ書いてないからです。皆さんがこの講義にいらっしゃる方に賭け、いま、私が精神分析家として紹介されたところですから、皆さんは二重の賭けをしてしまったと感じておられるはずです。

 

 

 

 

 

 エリクソンは、ユーモアの分かる人だった、ということが、こんなところからも分かりますよね。 「どういう分野の話なのか、表題から分からず、来てみたら、話すのがエリクソンかよ⁉」という、聴講者の反応を、自分を笑い飛ばす感じで、言葉にして見せているのですから。

 そのユーモアは、多分、エリクソンが、今眼の前にいる聴講者の皆さんと、文字通り、「先生と生徒」のような上下関係ではなくて、≪やり取りのある関係≫になりたい、という、話の中身とも関わり、エリクソンが日ごろから心掛けている関わりにも通じることを、自分を笑い飛ばすことで、実現しようとする、極めて臨床的な導入だ、と私は強い印象を覚えますね。

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