エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

おとぎ話の鈴鳴らし

2015-03-03 13:38:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 自然の力や神の意思を感じていたい。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p91の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 1番忘れならない虫は、私が「おとぎ話の鈴鳴らし」と呼んだ虫です。私は1度だって見たことがありませんでしたよ。見たかったのかハッキリしません。その声。確かにその虫の声です。その声は、実に絶妙、実に繊細、実に浮世離れですから、眼には見えないままであるべきですし、私が見つけようとした晩の間、実際姿を現せませんでした。

 

 

 

 

 さて、どんな虫でしょうか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶好のチャンス到来の巻

2015-03-03 11:52:25 | アイデンティティの根源

トマス・アクィナス

 

 トマス・アクィナスは、理性に自由を確保して、合理的に自分を確かにする道をひらいたと言われます。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp185の下第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 トマス・アクィナスの神学を通して、神学が自らのものとして手に入れたのは、アリストテレス哲学が行っていた、観察と思索に対する努力であったことは、明らかです。この、観察し思索することは、ルネッサンス期には、ごく普通のことになりました。しかしながら、人間が観察し判断する備えをするには、あの世とこの世を共同されるだけの意志の強さを、神様からいただかなくてはなりません。古代ギリシャ・ローマとキリスト教、理性と信頼をそれぞれ統合する、などと言うことは考えられないことでした。その直接的な結果は、威厳のある敬虔な態度、純粋な思想、統一された世界観ですが、これらは、あらゆる時代のヒエラルキーと儀式の形にピッタリです。しかし、ルターの問いは、この統一において、良心の課題が理性の範囲に限定されちゃいはすまいか?ということであって、理性が信頼と一致しない、ということではありませんでした。

 

 

 

 

 理性と信頼と言う、古くて新しい課題です。

 いまでも課題です。学校でやることは、本来、信頼を育みつつ、理性をも洗練させていくことであるはずでしょ。

 しかし、今は信頼は決定的に欠落して、理性のほんの一部、アカデミックなところを、進学塾には遠く及ばない形でやっているのが、今の日本の公教育の現状です。ところが、信頼が決定的に欠落している子どもたちが大挙して今の日本の学校に押し寄せ居ていて、今までの学校のやり方が通用しない子どもたちで、今の日本の学校は溢れかえっているんですね。子どもも大変困惑していますが、教員たち、特に管理教育の連中が困ってんですね。

 信頼を育む教育を再生する、絶好のチャンス到来です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反抗的人間 Noとハッキリ言う≪市民的勇気≫

2015-03-03 06:25:22 | エリクソンの発達臨床心理

 

 先日このブログでご紹介しました、岡田尊司さんの『子どもが自立できる教育』の一節。「ヨーロッパの教育でとても重視されるもので、日本では軽んじられているものとして、主体性と責任感がある。主体性を尊重してはじめて、本来の責任というものが生じるし、育っていくことになる。教師が主導し、それに服従する生徒がよい生徒であるという意識が強い日本では、生徒の主体性は口先では称揚しつつも、態度や深層心理ではうっとうしがられるところがある。やはり教師の話をよく聞き、指示したとおり行動する生徒がよい生徒とみなされるのだ」とありましたよね。教員に従順な子どもにすることが教育だと勘違いしている人も、実際少なくない。イエスマン。イエスピープル。

 今の国会も、与党勢力が3分の2以上。安倍晋三政権のやることに対して、「NO」とハッキリと言える人が少ないですね。イエスマン。イエスピープル。

 それでいい気になっているのが、お子ちゃま人間、安倍晋三首相ですよね。長きにわたり「日本政府はやりません」と言ってた「集団的自衛権の行使」容認を、閣議決定するは、それじゃあなくても、カローシや法律違反の長時間労働が当たり前の日本の労働慣習があるのに、「高度プロフェッショナル制度」と耳触りの良い言葉で、その実、労働環境を一層、非人間的なものにする制度の導入を声高に主張するは…。「女性が輝く社会」などと看板を掲げても、貧困に喘いで希望を見失いかけている何百万の貧しい情勢を見てみぬふりをするは、福島で甲状腺異常を訴える子どもが、疫学的に見て多いという意見があるのに、福島の子どもたちに対する「甲状腺の検査は必要ではない」と言うは…。

 国会議員ばかりに頼る訳にもいかないので、私どもは、新聞やインターネットを使って、「安倍晋三No」と旗印をハッキリ示す必要がありますね。

 また、地域や職場でも、権力の動きに対して、損は覚悟で「NO」と言う≪市民的勇気≫を持つことが大事になりますね。煙たがられたり、空気が読めない者だと断罪されたり…。そういうことも織り込み済みで「NO」と言える人間が必要ですね。

 何故でしょう?

 それは、いろんなことが言えるかもしれません。1つ私の意見を簡単に申し述べておきたいと思います。それは、子どもの人権を守る、ということです。その1例を挙げましょう。

 子どもの人権は、ほっとけば、蔑ろにされやすい。その典型が戦争の時でしょ。しかし、今の日本では、実弾が飛び交う訳でじゃぁない。でもね、戦場よりも人が殺されているのが日本社会の、悲しくも厳しく、暗澹とした現実です。それでも私は、来る日も来る日も、陽気で楽しく子どもと係りますね。そういう関わり自体が、子どもを肯定することになりますから、子どもひとりびとりの自己肯定感のリフトアップすることに繋がるから、ですね。これに対して、ルールと言う「正義」を持ち出して、だがしかし、ルールを作る精神は蔑ろにしているのも知らないで、そのルールの文字面を押し付けるお役所仕事が、私の眼の前にもありますね。そのお役所仕事に対して、「NO」と言うのが、≪市民的勇気≫を持って、子どもの人権を守る、という具体的な仕事になってる訳ですね。今の私のね、大事な仕事なのね「NO」が。

 あなたも、そんなお役所仕事に対する「NO」(「許認可事業の民間企業」東電の汚染水垂れ流しに対する「NO」も含む)をハッキリ言いませんか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする