強さの在り処はどこですか?
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の下から2行目途中から。
鳥の渡りに、潮の満ち干、春を待つ堅い蕾には、見た目の美だけではなくて、何か大事なものを象徴する美がありますよね。
見た目の美を感じるのにも、じっくり味わう気持ちが必要かもしれません。でも、象徴的な美を感じるためには、もっとゆとりが必要なのかもしれませんね。
強さの在り処はどこですか?
The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p100の下から2行目途中から。
鳥の渡りに、潮の満ち干、春を待つ堅い蕾には、見た目の美だけではなくて、何か大事なものを象徴する美がありますよね。
見た目の美を感じるのにも、じっくり味わう気持ちが必要かもしれません。でも、象徴的な美を感じるためには、もっとゆとりが必要なのかもしれませんね。
中世のカトリック教会は、天国よりも地獄の方が現実味があったらしい。
Young Man Luther 『青年ルター』のp188の第5パラグラフから。
ホイジンガの分析のおかげで、私どもは免罪符の問題に向き合うことになります。実在論は、この世の「穢れ」に対して超自然的な現実味を与えることになったように、恵みそのものに、金勘定を持ち出すことになりました。無意識と神秘主義が金にもゴミにもなる、極端に両価的な神秘に対して、天にも昇るし、地にも下る、垂直性を確立しました。熱心な業で天に宝を積むという考え方は、昔のものでしたが、貯えを教会が売り出すことができる、という資本主義的な解釈は、公的には、1341年になって初めて、公認されました。
実体論も、なんでも実体化すればいいと言うもではないですね。恵みが免罪符を売り買いすることで取引できる、と考えることが、その最も情けないことですね。
「キリスト・イエスのまこと」。こういわれてピンと来る人はどれくらいいるのでしょうか。これは、新約聖書の「ガラテャ人への手紙」第2章16節の言葉ですが、新共同訳では、「イエス・キリストへの信仰」と訳される箇所です。
この翻訳の違いを始めて教えていただいたのは、聖書のギリシア語を学び出して間もない頃、ギリシャ語の先生である武藤陽一先生からでした。その時の感動を今も忘れることはできません。
この箇所はとても大事なところでして、キリスト教の根幹をなす、と申し上げても、言い過ぎにならない箇所なんですね。
新共同訳では
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」
「信仰義認」と言われる態度の根拠になっている聖書箇所ですね。キリストを信じるから、私どもは救われる、ということの根拠になった場所です。そして、これは、ルター以降のプロテスタントの主張の根幹です。
でもね、これを前田護郎訳(前田護郎『新約聖書』中央公論社, http://members2.jcom.home.ne.jp/kitazawa817/newbible/top_page.htm)で見ると、
「人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。それは律法の行いによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。」
この訳ですと、私どもが救われるのは、私どもが信じたからではない。イエスが、十字架につけられるまで、まことの限りを尽くしてくださったおかげで、私どもは救われる、ということになります。これほどのまことを示してくれたから、イエスをキリストと信じることができたわけで、信じたのは、結果に過ぎない、ということでしょ。
この差は、ギリシャ語の πιστεως Χριστου ビストゥース・ハリストゥーをどう訳すかによります。ハリストゥーは、ハリストスの属格なんですね。英語にすればこの箇所は、trust of christ となって、問題になるのがこの属格の of です。属格は、主格(主語に関わる)にも、対格(目的語に関わる)にも読めます。対格と読んで、「イエス・キリストへの信仰」と訳したのが、新共同訳です。それに対して、前田訳では、属格のまま「キリスト・イエスのまこと」と訳し、むしろ、主格の意味を出しています。
これを主格に取ると、私どもの救いの条件は、1つも私どもの側にはない、ということがハッキリします。すなわち、救いは無条件になります。救いの唯一の条件は、「キリスト・イエスのまこと」。十字架まで従順であられたキリストのまことが、私どもの救いの唯一の条件で、それはすでに成就している、ということになります。
なんとありがたいことでしょうか。