エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

私の原点 エクレシア 

2015-03-22 07:43:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 教会に行ったことがある人でも、無教会の集会(エクレシア)ってどんなものなのか?と思う人も少なくないのじゃないのかしらね。

 今日は内村鑑三記念キリスト教講演会が、東京では、今井館聖書講堂(東急の自由が丘か都立大前から徒歩10分くらい)で午後2時からありますが、実際に触れたい方は、そちらにどうぞ。

 私は、1985年、大学3年の時から、西村秀夫先生の集会「聖書を学ぶ会」に参加して、西村先生が2005年に亡くなるまで、参加していました。また、時々でしたが、高橋三郎先生の集会にも参加させてもらうこともありました。その集会のあり方を記しておこうと思います。

 まず、集会の司会者が「時間になりましたので、集会を始めます。まずは黙とうをします」と言って、全員が黙とうをします。無教会、特に矢内原集会は「時間厳守」でしたから、遅刻は一切厳禁。でも、私が参加したころの西村集会は、そんなに厳しくありませんでした。それでも、遅刻したことは、最初の頃の2回程くらい、その後ありませんでした。

 黙とうの後、讃美歌を一曲歌います。『讃美歌』を持参したほうが良いですね。「〇〇番」と司会者が言うと、オルガンを弾けるメンバーがオルガンを弾いてくれます。讃美歌の後は、司会者が、聖書箇所を1か所か、時には2か所、読み上げます。みなはその聖書箇所をひらいて、一緒に黙読します。司会者が今日の「聖書報告」と関係のある箇所を選ぶと、良い感じです。当日学ぶところは、メンバーが1節ずつくらい、輪読します。その後、司会者が「開会のお祈り」をした後、「聖書報告」となります。たとえば、ルカによる福音書で今日学ぶ聖句について、西村先生が学んできたところを、メンバーに「報告」します。むかしは、「聖書講義」と言っていたこともあるそうですが、西村先生は、次男が、学生運動の最中自死した後、「先生の立場から降りる」ことになったので、「聖書報告」ということになっていたようです。高橋三郎先生も、集会では、「教壇」には立たず、わざわざフロアーに立って、聖書講義をしたことがあって、印象に残ったことがありました。

 学びの聖書箇所は、「聖書を学ぶ会」の集会のメンバーが、聖書の何処を学びたいか、話し合って決めました。民主的ですね。最初は、西村先生と、今は北星学園理事長として北海道に転居している大山綱夫先生が交代で、聖書報告を担当していました。野村実先生が、西村先生が入院中に一度だけ、聖書報告を担当してくださったこともありましたね。それから、10年くらい後になると、私も含めて3人も加えで、5人で聖書報告を担当するようになりました。私も、ギリシャ語を学んで、聖書の読み方が変わった感じがして、自分なりに学んだことを、本当に嬉しい感じで報告させてもらっていました。

 聖書報告の後は、小休止と、お茶と茶菓を口にしながら、メンバー全員が自分で学んできたことや、その日報告を聴いて、考えたり感じたりしたところを、感話として話します。話し合いの時間です。それも大体一時間。最後に、もう一曲讃美歌を歌って、最後に「聖書報告」担当者が「閉会のお祈り」をしてお終いです。

 極めて簡素、極めてシンプル。それでも、これが私が学んだ集会の流れですね。ここでの学びが、私の原点になってます。

 

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小さな存在を肯定する

2015-03-22 06:43:16 | 間奏曲

 

 一流の学者は、みずみずしい感性をお持ちですから、詩人です。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p101の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 「父は、ものすごいロマンチストでした。父は人生を強く肯定していましたし、宇宙の神秘を大事にしました」と息子は記しています。

 

 

 

 

 本物の学者は、弱い存在を肯定する人でもあります。

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恍惚としても安心できません

2015-03-22 06:12:20 | アイデンティティの根源

 

 本物の安心は、どうやったら、手に入れることが出来るのでしょうね。

 Young Man Luther 『青年ルター』のp189の第2パラグラフから。

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 ドイツ神秘主義の体系的な哲学的内容は、取るに足りないもので、実際、ルターは自分自身の神学の基本的な主義ができるまで、一番体系的な神秘主義者タウラーでさえ読んでいませんでした。タウラーは、極端に申し上げれば、スピリチュアルな可能性の一定の極でした。タウラーにとって、神はあらゆる区別、あらゆる差異がなくなる時にはじまり、神は「未生の光」でした。神に至るためには、ラブタス、すなわち、完全に受け身になって、名前も身分も意思もなくす没我の状況を発展出来なくてはなりません。

 

 

 

 

 

 恍惚とした状態と言うのは、玉石混淆しやすいでしょうね。実にスピリチュアルになる可能性もあるけれども、逆に猛烈に俗っぽくなりやすい。

 タウラーという人は知りませんが、その両者の可能性があったと思います。恍惚としても、それがいつまでも続くわけではないので、醒めてから「あんし~ん」とは言えないのじゃないでしょうか?

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