エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

自らを誇りとしない

2015-03-25 11:40:10 | アイデンティティの根源

 

 難しいところですが、内省が必要なようですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.189の第2パラグラフの下から8行目途中から。

 

  

 

 

 

ここは、結婚式に集う場(das Hochgezeit)です。また、神は一瞬、元気でいるかもわかりません。神の到来は瞬く間です。地上の道々を飛び越えてきます。しかし、気を付けて。神の目が放つ光の筋は、神を見ようとする者を通り過ぎてしまいます。神の光の筋は、全くの受け身の人、克己努力することをしない人のところに来ます。

 

 

 

 

 

 克己努力する人の代表のようなルターが、克己努力しないことを推奨する。面白いですね。完全な受け身は、しかし、恵みをいただく態度ですし、自分を誇らないための態度です。

 

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古くて新しい浜辺

2015-03-25 09:29:41 | 間奏曲

 

 オットー・パターソンさんも、不思議がり。

 The Sense of Wonder 『不思議を感じる心』から p106の冒頭から。

 

 

 

 

 

 1通の手紙が最近届いたんですけれども、その手紙は、不思議を感じる心は、生涯続くことを雄弁に証言しています。その手紙は、1人の読者からのものでしたが、その人は、長期休暇を過ごすのに適当な海辺を教えてほしい、というものでした。文明で汚されていない浜辺を歩き回りたいし、古いのに、いつでも新しい世界を探検したいし、というのです。

 

 

 

 

 私もそんなところで休暇を過ごしたいものです。あなたもどうぞ。

 

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沖縄と安倍政権

2015-03-25 06:31:38 | エリクソンの発達臨床心理

       初沢亜利さんの写真から

 

 沖縄の問題は、私どもが置かれている状況を理解する時、非常に重要です。

 私たちは、どんな社会で暮らしているのでしょうか?

辺野古は名護市にあります。昨年1月の名護市長選では、辺野古に基地を作ることに反対の稲嶺進さんが当選しています。2010年の市長選に続き、2期目だそうです。また、昨年9月の辺野古市議選でも、議員定数27人に対して、辺野古に基地を作ることに反対する16人が当選しています。そして、昨年11月の沖縄知事選では、辺野古に基地を作ることを容認していた仲井眞弘多さんを、辺野古に基地を作ることに反対の翁長雄志さんが破って当選しています。さらには、昨年12月の総選挙では、沖縄の総選挙では、1区が共産党の赤嶺政賢(あきみね せいけん)さん、2区が社会民主党の照屋寛徳(てるや かんとく)さん、3区が生活の党の玉城デニー(たまき でにー)さん、4区が仲里利信(なかさと としのぶ)さんが当選しました。4人とも辺野古に基地を作ることに反対の人が当選しています。つまりは、沖縄の人々は、「辺野古に基地を作ることに反対」が、ハッキリと示された民意という訳です。

 民主主義は、これだけはっきりと示された民意に対しては、誰も抗しがたいはずです。また、国全体の意見からみれば、「辺野古に基地を作ることの反対」の意見が少数派の意見であるとしても、少数意見を尊重することも、民主主義の根幹にかかわることですから、これだけ明確に示された「少数意見」に耳を傾けることが、本来の民主主義のあり方でしょう。

 では、安倍晋三政権は、沖縄の人々の意見に謙虚に耳を傾けているのでしょうか?答えは「NO」ですよね。これは果たして民主主義ですか?「NO」ですよね。ましてや、辺野古に基地を作ることに反対と言う意思を行動で示している人を、暴力で排除しているんですからね。海上保安庁が反対派の船に乗る人に暴力を加えている。

https://www.youtube.com/watch?v=czk61HM7I0s

これは非常に危険なことであって、民主主義の危機そのものでしょ。私は、安倍晋三政権は、ナチ政権だと考えます。国民の基本的人権を、暴力で侵しているのです。安倍政権は、「民主主義は我々と同じ価値観」などと言っているけれども、民主主義の敵であることは、火を見るよりも明らかです。

 これについては、「他人事」と済ませている人も少なくないと思います。でもね、それについては、次のマルティン・ニーメラーの詩を読んでから、考えてもらいたいと思います。

「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

 

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