エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ベリート=相手が得する一方的約束 

2015-08-18 07:54:05 | アイデンティティの根源

 

 「ねばならない」の真面目人間は、河合隼雄先生が言う遊びが少ない大人です。創造的なことはしにくいわけですね。悦んで何かを楽しむことが少ないからですね。なぜなら、創造的なことは、必ず楽しいこと、悦びの中にあるからですね。ですから愉しみ陽気に、笑ってやりましょうよ。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 こんな心の中の順番に抗して、ルターは、新しい心の時空が新たにまとまって、スピリット、精神を繰り返し強調したわけですね。そのスピリットは、「相手のために、一方的に関わる」というスピリットです。ルターは言います、「誰も正しくはないのです。『ねばならないこと』をしたからと言って。やることが正しいのは、ご当人が正しい場合だけです。quia justus, opera justa ラテン語で『(本人が)正しいから、正しいことができる』 」と。

 

 

 

 

 

 ここはキリスト教の本質に関わるとこです。それが分からない西平直さんもずいぶん悩んだ跡がありますが、チンプンカンプンの「翻訳」に終わってます。キリストの信頼、ピスティスとは無関係な生活をしてるんですから、仕方がありませんね。でも、こういう本を出版してはいけません。

 これは、旧約聖書では「ベリートを切る」(「リベート」ではない点に注意)、ギリシア語では、διαθηκη ディアセーケー 「相手の得になることを、一方的に約束すること」なんですね。そのスピリット。イエスの十字架が、まさに、この約束そのものを体現したものですね。

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空気の濃さ

2015-08-18 06:40:22 | エリクソンの発達臨床心理

 

 老年期の、disdain ディスデイン 「人を人とも思わない、底意地の悪い気持ち」。

 成人期の、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」。

 いずれも、その当人そのものが無意識の圧倒的な暴力にされされてますから、自分では止められません。周りの人が止めるのも、相当難しいものですね。でも、こういう人って、結構いるんですよ。本人はもちろん、周りもそれとは気付かないだけ。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p68、下から11行目途中から。

 

 

 

 

 

もちろん、一定のロジックはあんですね。人の中で、人の世話を(本能的に)することを(本能的に)仕上げることが、一番「馴染のある」相手、あるいは、一番「馴染のある」ことにされた相手を好んで選んでいることに対して。実際、次世代を育むことも出来なければ、よく世話も出来ないのは、ある程度ハッキリと、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」で選ぶことがない場合でしょ。まさにこういう理由のために、倫理、法律、洞察が、ある集団の中で、我慢できるrejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」(を出して良い範囲)を定義しなくてはなりません。それは宗教の信念体系や価値の信念体系が、特定の幅の社会を好む、なるべく誰もが受け容れられる原理を守り続けなくてはならないのと、一緒です。

 

 

 

 

 

 このrejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の幅は、実に様々なんですね。これは、日本のように厳罰主義になれば、その幅は非常に広くなり、非常に多くのケースが、「ダメだ」と裁かれることになります。したがって、ルターの話とも重なりますが、「ねばならない」感じの真面目人間が幅を利かすことになります。でも、そうであればあるほど、息詰まる空気が蔓延すんですけれどもね。空気が薄くなんですけどね。たとえば、特にその手の真面目人間が多い教員が、子どもたちにエッチなことをして、懲戒免職になる事案が次から次へと起るでしょ。「ねばならない」が強いからなんですけどね。無意識の圧倒的な暴力の侵されてんですね。

 それに比べて、フィンランドは、rejectivity リジェクティヴィティ 「大事にする相手の仲間から、仲間はずれにしたい、底意地の悪い気持ち」の幅が狭い。修復的司法の国ですから、クリスティー教授の指導よろしく、「いいよ」と認められるケースが非常に多い訳ですね。こうなれば、新鮮な空気、濃い空気に包まれますね。

 あなたはどちらが良いですか?

 

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ものがたりの “不思議“

2015-08-18 00:20:00 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
言葉と出来事を一致させる力
  神様のそのお名前が、「私は自分の言ったことは必ず出来事にする者です」ということです。それはフロムには叱られるかもしれませんが、その属性を一つ挙げるとす...
 

 先日、ユングの著作集からの言葉をご紹介しましたよね。無意識が、私どもの意識ではコントロールできない形で、個人の運命など、いとも簡単に弄ぶほどの圧倒的な暴力をふるうことになる場合がしばしばある。それを防ぐための、少なくともヒントになる所も引用しましたよね。それを再掲しておきますね。

「元型はいつでも≪いまここ≫にありますし、常に働いてます。元型はそれが存在することを信じてほしいのではなくて、その元型が何を意味しているのか? を直感して貰いたいし、元型に対して賢明な畏れを感じてもらいたいんですね。すなわち、δεισιδαιμονια デイスダイモニア 「神を畏れる気持ち」を忘れないことです。これは元型の大切さを見失わないでね、ということです」。

 ものがたり。物語。この「もの」は、このδεισιδαιμονια デイスダイモニア 「神を畏れる気持ち」に通じる“もの“がある、と、先日「関口宏の“そもそも”『妖怪~異界の存在にひかれるワケ~』」で教えてもらいました。この「もの」は、妖怪や鬼や怨霊のことだというんですね。つまり、人間の力を≪超越≫する存在であると同時に、人と人が共に抱く≪イメージ≫だということです。

 小説家、作家は、どうしているんでしょうね。物語を作る立場。私は一番印象に残っているのは、赤塚不二夫さんです。アル中のとんでもない人、という人もあるかもしれませんが、私は天才だと考えます。皆さんもご存知の「天才バカボン」。赤塚さんはもちろん「バカボン」を主人公に物語を書く予定だった。でも実際に「天才バカボン」をテレビで見たことがある人だったら、お分かりだと思うのですが、主人公は「バカボンのパパ」ですよね。赤塚さんに言わせたら、「キャラクターが、勝手に動くのね」しかも、「その方が良いの」とも。

 先日、作家の吉本ばななさんが、インタヴュウ番組(7/4/2015,「switchインタヴュウ 達人達 森本千絵×吉本ばなな)で、同様のことを言っていまたよね。「ほっておくと、素材が寄ってくる」、「そうすると、『(小説を)書け』ってことなんだろうなぁと思って、立ち上がるって感じ」。自分が書いているのに、自分が書いている感じじゃぁないでしょ。極めつけは次です。「何よりも主人公の人は、何か言いたいことがあって、来たわけですよ、私のところに」「その訴えかけが3人くらいになってきたら、『これはもう書かなきゃなぁ』と思って、重い腰を上げて書き始める…。」「でも、私じゃぁないので、『何でこんなことするの?』と訊いてみて、『これこれこういうことだよ』と理解不能な理由を言ってきて、それを翻訳するのが、私の仕事」、「私が作っていると思い上がっていたんですけれども、…『勝手に登場人物が動き出したんです』みたいな話があるけれども、…もっと向こう(登場人物)が強い感じ、ぐいぐい来る感じ、訴えかけをしてきて、それを私が聴いてあげる… (『紙の月』の主人公に)『何で横領なんかしちゃったんだろうね』って訊いたら、…『お金が欲しかった』だとか、『彼に振り向いてほしかった』じゃぁなくて、意外に、もっと深い流れの中で、そういう事件が起きていると思うんですよ。私は深い方の流れだけを書きたいと思っている」って言うんですからね。創造活動の一端が如実に “語られて“ いますでしょ。

 赤塚不二夫さんにしても、吉本ばななさんにしても、本が出れば、「作者、赤塚不二夫」、「作者、吉本ばなな」となる。でも、ご本人が書いているのだけれども、作者がこねくり回して、デッチアゲて作るものでは全くない。むしろ自分を超える、すなわち、自分でコントロールできない、「深い流れの方」にいる「相手」と対話する中で出て来たものを、聴いたり、翻訳したり、書き写したりしているだけ。「だけ」と言ったら、失礼かもしれませんが、創造活動は、自分を超えるところからプレゼントされるものだ、ということです。

 そして、私のフィールドの心理臨床の場で申し上げれば、一番うまくいったケースでは必ず、私が当初見通していたことを遥かに超えることが、自ずから起きてきて、その展開に委ねていたら、「うまくいった」という感じになります。ですから、ことさら「自分の手柄」と言い建てることは、はばかられる感じになります。面白いでしょ、素晴らしいでしょ。

 物語、それは自分を超える「相手」との対話の中で、プレゼントされるもの。そして、それを読者やリスナーやクライアントと「共に見る」ものなんですね。素晴らしいですね。

 あなたも、今日、自分の物語を聞き取ってくださいね。

 

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