言葉と出来事を一致させる力
神様のそのお名前が、「私は自分の言ったことは必ず出来事にする者です」ということです。それはフロムには叱られるかもしれませんが、その属性を一つ挙げるとす...
先日、ユングの著作集からの言葉をご紹介しましたよね。無意識が、私どもの意識ではコントロールできない形で、個人の運命など、いとも簡単に弄ぶほどの圧倒的な暴力をふるうことになる場合がしばしばある。それを防ぐための、少なくともヒントになる所も引用しましたよね。それを再掲しておきますね。
「元型はいつでも≪いまここ≫にありますし、常に働いてます。元型はそれが存在することを信じてほしいのではなくて、その元型が何を意味しているのか? を直感して貰いたいし、元型に対して賢明な畏れを感じてもらいたいんですね。すなわち、δεισιδαιμονια デイスダイモニア 「神を畏れる気持ち」を忘れないことです。これは元型の大切さを見失わないでね、ということです」。
ものがたり。物語。この「もの」は、このδεισιδαιμονια デイスダイモニア 「神を畏れる気持ち」に通じる“もの“がある、と、先日「関口宏の“そもそも”『妖怪~異界の存在にひかれるワケ~』」で教えてもらいました。この「もの」は、妖怪や鬼や怨霊のことだというんですね。つまり、人間の力を≪超越≫する存在であると同時に、人と人が共に抱く≪イメージ≫だということです。
小説家、作家は、どうしているんでしょうね。物語を作る立場。私は一番印象に残っているのは、赤塚不二夫さんです。アル中のとんでもない人、という人もあるかもしれませんが、私は天才だと考えます。皆さんもご存知の「天才バカボン」。赤塚さんはもちろん「バカボン」を主人公に物語を書く予定だった。でも実際に「天才バカボン」をテレビで見たことがある人だったら、お分かりだと思うのですが、主人公は「バカボンのパパ」ですよね。赤塚さんに言わせたら、「キャラクターが、勝手に動くのね」しかも、「その方が良いの」とも。
先日、作家の吉本ばななさんが、インタヴュウ番組(7/4/2015,「switchインタヴュウ 達人達 森本千絵×吉本ばなな)で、同様のことを言っていまたよね。「ほっておくと、素材が寄ってくる」、「そうすると、『(小説を)書け』ってことなんだろうなぁと思って、立ち上がるって感じ」。自分が書いているのに、自分が書いている感じじゃぁないでしょ。極めつけは次です。「何よりも主人公の人は、何か言いたいことがあって、来たわけですよ、私のところに」「その訴えかけが3人くらいになってきたら、『これはもう書かなきゃなぁ』と思って、重い腰を上げて書き始める…。」「でも、私じゃぁないので、『何でこんなことするの?』と訊いてみて、『これこれこういうことだよ』と理解不能な理由を言ってきて、それを翻訳するのが、私の仕事」、「私が作っていると思い上がっていたんですけれども、…『勝手に登場人物が動き出したんです』みたいな話があるけれども、…もっと向こう(登場人物)が強い感じ、ぐいぐい来る感じ、訴えかけをしてきて、それを私が聴いてあげる… (『紙の月』の主人公に)『何で横領なんかしちゃったんだろうね』って訊いたら、…『お金が欲しかった』だとか、『彼に振り向いてほしかった』じゃぁなくて、意外に、もっと深い流れの中で、そういう事件が起きていると思うんですよ。私は深い方の流れだけを書きたいと思っている」って言うんですからね。創造活動の一端が如実に “語られて“ いますでしょ。
赤塚不二夫さんにしても、吉本ばななさんにしても、本が出れば、「作者、赤塚不二夫」、「作者、吉本ばなな」となる。でも、ご本人が書いているのだけれども、作者がこねくり回して、デッチアゲて作るものでは全くない。むしろ自分を超える、すなわち、自分でコントロールできない、「深い流れの方」にいる「相手」と対話する中で出て来たものを、聴いたり、翻訳したり、書き写したりしているだけ。「だけ」と言ったら、失礼かもしれませんが、創造活動は、自分を超えるところからプレゼントされるものだ、ということです。
そして、私のフィールドの心理臨床の場で申し上げれば、一番うまくいったケースでは必ず、私が当初見通していたことを遥かに超えることが、自ずから起きてきて、その展開に委ねていたら、「うまくいった」という感じになります。ですから、ことさら「自分の手柄」と言い建てることは、はばかられる感じになります。面白いでしょ、素晴らしいでしょ。
物語、それは自分を超える「相手」との対話の中で、プレゼントされるもの。そして、それを読者やリスナーやクライアントと「共に見る」ものなんですね。素晴らしいですね。
あなたも、今日、自分の物語を聞き取ってくださいね。