エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

臨床心理の創造的な実践者

2016-01-05 08:33:49 | アイデンティティの根源

 

 

 
自由 :自分を売らない生き方の基本 3訂版
  基本的人権で最も基礎になるものはなんでしょうか? ちょっと考えてみてくださいね。何なんでしょうか?    そ...
 

 神様を日々冒涜している人の、つづき。闇が一端、病みになったら、なかなか止まりませんね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.249の、第2パラグラフ 5行目途中から。

 

 

 

 

私どもは、拒絶しないルターなしに、ルターを上手くイメージすることが出来るのか、それとも、ルターを台無しにしてしまうのか、という問いに、理屈の上では、答えを出せるのか分かりません。全体的に見る時、心の経済という現代的な視点からすれば、ルターがこれらのことにこだわったので、ルターは拒絶することに、エネルギーを相当奪われたということです。 それにこだわらなかったら、ルターは、若い時に手に入れた価値を、創造的に、確かにすることもできたでしょうにね。もしも、このエネルギーをルターが自由に使えたら、いろんな衝動を能動的にコントロールする上ばかりではなくて、いろいろな意味で、受け身になることを、能動的にコントロールする上で、創造的な役割を果しえたでしょうにね。そうすりゃぁ、他の人達にも、衝動ばかりではなくて、いろんな受け身の体験を能動的にコントロールする力を呼び覚ますこともできたでしょうにね。

 

 

 

 

 エリクソンは、ルターの中に、臨床心理の創造的な実践者の芽を見出していたことは、この件から、明らかですね。

 

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2016-01-05 08:06:44 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
自由 :自分を売らない生き方の基本 3訂版
  基本的人権で最も基礎になるものはなんでしょうか? ちょっと考えてみてくださいね。何なんでしょうか?    そ...
 

 

 エリクソンの発達の舞台には、9番目の舞台があったんですね。

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の始めに戻って、「完成版の前書き」に入ります。p.1の、第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 人生の巡り合わせの9番目の舞台について、エリックと、私ジョアンが、何かを申し上げる前に、私ジョアンは、8番目の舞台の「広告」を一つしますね。

 

 

 

 

 

 こうしてみると、この前書きは、エリック・エリクソンではなくて、奥様のジョアンが主に描いていることが分かります。でも、エリックは、いつでもジョアンと話し合い、生活しながら、自分の理論や論文を作っていたのですから、エリックの代わりにここはジョアンが書いている、と見たほうがいいでしょう。

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「叡智」という鼻

2016-01-05 03:43:05 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
自分が得することを、最も大事にする生き方
  現代人、当然、今の日本人は、自分の暮らしが危うい暮らしだ、ということを感じている人が実際は多い。それはお金持ちでも、貧乏でも変わりません。貧乏である人ほど、切...
 

 脱感作も、トラウマ治療に役立つことはめったにないらしい。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.225の、ブランクから。

 

 

 

 

 

トラウマに安全に効く薬

 

 私が医学部の学生だったころ、1966年の夏、オランダのライデン大学教授、ジャン・バスティアンの研究のお手伝いをして過ごしました。ジャン教授は、ホロコーストの生存者にLSDを用いた治療をしていることで知られていました。彼は、顕著な治療結果が得られたと主張していたものの、同僚がその業績をよくよく調べてみると、彼の業績を支持できるデータがほとんどないことが分かりました。トラウマ治療のための向精神薬のなる可能性は、この結果、2000年まで、否定されることになりました。

 

 

 

 

 

 本物の近くには、得てして、ひどい偽物が、本物のような顔をして、いる訳ですね。このジャン・バスティアン教授も、ライデン大学という有名大学の教授なのに、ねつ造論文を書いていたわけです。東大や理化学研究所の人達でも、ねつ造論文を書いている人がいましたね。

 私どもに必要なのは、本物と偽物を嗅ぎ分ける鼻ですね。ラインホルト・ニーバーの祈りにあるように、その鼻の名は 「叡智」ですね。それは光そのものです。


 

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違和感 偽物の臭い 子どもはウソを見抜きまっせ!

2016-01-05 02:20:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
自分が得することを、最も大事にする生き方
  現代人、当然、今の日本人は、自分の暮らしが危うい暮らしだ、ということを感じている人が実際は多い。それはお金持ちでも、貧乏でも変わりません。貧乏である人ほど、切...
 

 

 違和感。感じる力。それが、セラピストの命です。これが鈍くなったら、商売あがったり。感じる力 sense, a sense of ...、「何となく、感じていること」が、私の最も大事にしていることです。それは、1つには、クリニカルサイコロジストとして、臨床の中で、日々鍛錬して、身に着けているものです。と同時に、本物、特に、厳しい現場で命がけで戦って、命と信頼を守っている人達や作品から、学んできたことです。野村實先生、西村秀夫先生、高橋三郎先生、宮嶋眞一郎先生、関根正雄先生、宮田光雄先生、らクリスチャンの先達や、東京の「聖書を学ぶ会」や京都の「北白川集会」、「無教会新宿集会」の「神学研究会」の仲間、「無教会研修所」でギリシア語を共に学んだ仲間、「旧約聖書入門」を教えて下すった雨宮慧先生、会ったことはないければも、私淑している本田哲郎神父様、ボンヘッファーやカール・バルト、かつて礼拝に何度も出ていた田中信生先生…、それから、真実なことを教えてくれている、日々出逢う子どもたち。それは、香り、匂いを嗅ぎ分ける鋭い鼻を下さいます。クリニカルサイコロジストも、子どもみたいに、ウソを見抜きだしまっせ

 2年ほど前、佐村河内守さんが、ウソの作曲家であったという事件が世間をにぎわしていたことがありましたね。世の中の表面的な動きが激しいので、みなさん、お忘れになってませんでしたか? 私はテレビにチラッてみて、なんか違和感がありましたね。後付けと言われるかもしれません。オリンピックのエンブレムの佐野研二郎さんも、「なんか、瞳の汚い人だな」と感じてました。後付けかもしれません。横道でした。佐村河内守さん事件の後で、ピアニストの森下唯さんの文書が、「なるほどなぁ」と腑に落ちました。それは、「より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~」http://www.morishitayui.jp/samuragochi-niigaki/です。そこには、次のように書かれてあります。

「私が初めて佐村河内氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のNHKスペシャルが放送された直後のことだ。人づてに話を聞いて興味を持ち、ネットで検索してプロフィールやら言及する文章やらを読み、曲の断片を動画で視聴したと記憶している。そのとき強烈に残ったのは、まず違和感であった。

違和感というのは、その音楽のたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってその音楽は、丹精込めて仕上げられた工芸品のように思われた。真っ当にクラシック音楽の教育を受け、あらゆる作曲技法に長けた知性に優れる人間が、都度つど何らかの書法の制約を自らに課しながら書き上げたものだと「わかった」。今このようなことを書いても後出しだと言われるのはわかりきっているが、そう思ったのは事実で、おそらくクラシックを学んだ心ある人間の多くが直感できたはずだ(実際、私の知る音楽家の幾人かは今回の発覚に対して「やっぱり」といった感想を漏らしていた)。聴覚を失った後に真実の音に目覚め、それまでの楽曲を全て破棄した元ロック・ミュージシャンが、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げた物とは、到底考えられない。プロフィールのそれらの言葉には薄ら寒さすら覚えた。オエッ。売り出すためのストーリーを誰かが描いている。作曲家はそれに乗じて悪びれずにいるらしい。そんな構図を漠然と思い描いた。」

 要するに、言っていることとやっていることの違和感、偽物の臭いがしたわけです。それは、日々の鍛錬の賜物です。

 新約聖書の「マタイによる福音書」第10章16節には、「ヘビのように感性鋭く、ハトのように単刀直入にハッキリ言葉にしながら、生きたなさい」とあります(私が、本田哲郎神父の翻訳を参考にした、独自の翻訳です)。新共同訳では、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。以前にブログに書きました(感性の鋭さ)。日々の意識的な鍛錬があって、はじめて身に着くものです。司馬遼太郎もそう仰せです。

 そういう眼で、いいえ、そういう鼻で、ほぼ毎日国会前を、わざわざフェイスブックに顔写真を出して、散歩している(本人は「祈り」だと嘘を言っている)、なか◎朗さんの言動を見る時、いいえ、嗅ぐ時、非常に違和感を毎回感じるんです。偽物の臭いがムンムンするんです。ウソの臭いがプンプンするんですね。中には、それを見て「すごい信仰ですね」などと褒めるバカもいるんですね。野村實先生ではないですが、「信仰(イエスを信頼すること)は、そんなものではありません」と言下に言ってやりたい気分になりますね。

 なぜ、ウソなのか? 一義的には、理屈ではなく、ウソと感じるからウソなんです。しかし、それだけではもちろん、ありません。祈りは本来隠れてするものであって、それを見せびらかすものではありません。それは聖書にある通りです。

「マタイによる福音書」第6章5-6節には 
「祈るとき、偽善者のごとくであるな。彼らは国会前
(訳注:元の古いギリシア語の言葉は、シナゴーグで、「ヤーウェを共に信頼するための集会所」の意味、ユダヤ教では、政教一致ですから、信頼の場が同時に政治の場であって、「国会」と訳せます)や町角に立って祈りたがるが、それは人々に見せるためである。本当にいう、彼らはその報いを得ている。6あなたが祈るときは部屋に入って戸を閉じ、隠れたところにいますあなたの父に祈れ。さらば隠れたところに見たもうあなたの父は報いたまおう。」

 祈りは隠れてするものなのに、そうせず、しかも、それをフェイスブックに報告して、顔写真まで出す感性! 私の学んできたクリスチャンの仲間には、ありえないものです。聖書の言葉に従うことが出来ないクリスチャンって存在するの? いいえ、いるはずない! ですから、なか◎朗さんが、クリスチャンでないことは、間違いありません!! その人が、クリスチャンの新聞で、クリスチャンのような顔をして働いている。その会社に、抗議したい気分ですね。

 さらに申し上げれば、「神の恵み」があるという、なか◎朗さんの顔が、いつも死んだような、生気のない眼、もの悲しくも、怒りと嫌悪感がにじみ出ている、うつ病のような顔を、写真にして載せている感性! あれじゃぁ、「神の恵み」という言と、なか◎朗さんのあの、うつ病のような顔という事実・出来事の、雲泥の差ほどのあまりの乖離あの顔で、「神の恵み」と言うのは、明らかに神に対する冒涜以外の何物でもありません!! この点も、その人の会社に、抗議したい気分になりますね。

 インターネット依存症ですから、今朝も、国会前の顔出し散歩に行くだろう、なか◎朗さんのために、皆さん、一緒にお祈りしませんか? もちろん、「隠れたところで」ね

 

 

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