20年前の1月17日。読者の皆さんは、どこで何をしていましたか? まだ生まれていない方もあるかもわかりません。
私は、その前日、米沢興譲教会の田中信生先生の講演を、浦和の労働会館で初めて伺い、その後、その講演を一緒に聴いた友人と一緒に過ごして、朝帰りをした朝の事でした。空いた高速を飛ばして帰って、寝て起きてみたら、テレビで無残な神戸の姿が目に飛び込んできました。私はその日は年休を取っていたので、週末から4連休でした。
一月ほどしてから、職場で順番に神戸市三宮近くに派遣され、1週間ほど震災支援をしてきました。近隣の独居老人を回って、声を掛ける、というボランティアでした。宿舎は賀川記念館の3階だか4階だかを借りて、シュラフで寝ました。余震がまだあり、電気は何とかついたものの、水もまだ来ていませんでしたね。トイレは、汲んだ水で流しました。東京から賀川記念館まで行く途中でも三宮も、10階建てくらいのマンションが倒れていたり、2階がつぶれて一階になり、一階の駐車スペースの車が、ペシャンコになっていたり。一端ことが起きる時は、立派に見えた街もこんなになっちゃうんだ、と感じました。でも、線路近くの商店街は、食べ物を売っていたりしましたね。また、近くの学校の校庭に、自衛隊がテントの銭湯を設置して、近隣住民に提供していました。その風呂をたくモーターの音が今も耳の奥に残っている感じです。
今晩は、ルターからブログを始めましょうね。とっても大事なことをエリクソンが語ってくれているからです。
エリクソンは、ルターとフロイトには、共通点があるといいます。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.252の第2パラグラフから。
ルターとフロイトの2人は、自分が悩んでいることのど真ん中を内省することによって、人間が自由でいられる範囲を広げようとしたんですね。そして、この人間の自由を広げていくと、人は、その人ならではの生き方が増々できますし、正気でいることも、人類に対する奉仕も、増々できるようになるわけです。ルターは、儲けのためには客を騙しても平気な儲け主義が教会と商業に登場した時、人から褒められる「正しいこと」という思想と行動に対抗して≪祈りの人≫を置いたんですね。結局は、ルターが信頼によって自分を確かにしたことは、儲け主義に吸収されてしまいましたし、その結果、信頼によって儲け主義を正当化することになってしまいました。フロイトは、果てしない産業化が始まった時に、精神分析という、内省する方法をもう1つ編出しました。その精神分析によって、フロイトは、人間が機械のように社会に適応すれば、適応はしているけれども、本当は不安でたまらないロボットになってますよ、と警告したのは明らかです。フロイトの業績は、フロイトが警告したことを一層進めるために使われているのは、また、ルターの時と同様、明らかです。
実に見事な記述です。もしかしたら、今日のところをエリクソンは言いたくて、このYoung Man Luther 『青年ルター』を書いたのではないのかな?と思うほどです。
人から褒められる「正しいこと」をしても、一時安心があるだけで、社会に適応しているように見えるだけの、不安で不安でたまらない現代人を、エリクソンはよくよく知ってたんですね。「正しいこと」を強調する人ほど、不安が高い。そして、そういう人ほど、イジメをやる張本人です。イジメることで、自分と同じ不安を相手にも味わせたい、と無意識裡に思ってるからです。
ルターは、それに対して祈りを、フロイトは、精神分析という内省、もう1つの祈りを対抗させたわけですね。エリクソンも、「正しいこと」を強調する、不安でたまらない現代人に対して、内省する≪祈りの人≫が力を発揮するライフサイクルの地図を提案している点で、ルターやフロイトと同じです。