あらゆる真実の源 改訂版子どもの世界はピチピチ、キラキラしているのに、大人になる前に、失われてしまいやすい。何故なんでしょうか? レイチェル・カーソンの『The Sense of...
教育は、宝にもなるものですし、下の写真のトリカブトよろしく、猛毒にもなります。
それは、その教育が誰のものか、誰のために行われているのか? と関係するのではないでしょうか。たとえば「お国のため」の教育は、猛毒になる典型です。何十万の若者が、3~4年の間に、次から次へと殺されるために、「お国のため」と言う教育は行われた歴史を、私どもは持ってますからね。
じゃぁ、教育は、親のためのものなんでしょうか? 今の日本では、例えば、普通学校に行くのか? それとも支援学校に行くかは、市町村の教育委員会が決めるものではありません。義務教育においては、保護者が希望する学校に入れなければならないとされます。でも、親の希望通りの「良い子」を演じている子どもは、得てして深い心の病にかかってますよね。
じゃぁ、教育は子どものためのものなの? 私はそういいたい気分なんですね。でもね、教育哲学者の太田堯先生が、「教育はパブリックなものです」と言いますでしょ。教育は子どものもの、と断定するのは、言い過ぎなのかもしれませんね。
このパブリックな教育について、何度かに分けて、考えていきたいと思います。
ところで、パブリックな教育は、今日のルターのエリクソン(?)が、「(人と人が関わり合うことが、世代の繋がりにも一定のパターンを持ち込むことになるのは、)世代と世代の繋がりを繰り返し新たなパターンには変えていくためですし、人々が関わり合うことが、いろんな世代によって、新たな力を得るためなんです」と言ったことと、関係する、と私は考えます。