エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

発達トラウマ障害(DTD)の子どもは「厄介者」

2016-07-25 06:56:54 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
信頼があるほど、笑いがある?
  今晩は、「笑い」について、考えます。 日本で笑いと言ったら、吉本興業や松竹新喜劇の藤山寛美さんの笑いを思い出す人が多いかもしれませんね。テレビでは、その手の笑いが多......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子ども公衆衛生上でも、社会福祉の上でも、学校教育の上でも、最大の問題だ、と考えますが、ニッポンでは、まだ、発達トラウマ障害(DTD)の存在すら認識されていないのが、悲しき現状です。ウソとゴマカシだらけの個人と、その寄せ集めの腐った組織に限って、勘違いをしている教員、保育士、施設職員、医者や看護師などがは、陽気で楽しい、の価値を知りませんね。要するに、無知です。無知の知がな~い。とどのつまりが、学校などでもやってることは、ネグレクトか、薬漬けです。

 The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.351の第5パラグラフから。

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の治療に使う薬の量を増やしても、現実の問題を解決してくれません。発達トラウマ障害(DTD)の患者が折り合うを付けなくちゃいけないことって何でしょうか? その内的な、あるいは、外的な資源とは何でしょうか? どうすれば、発達トラウマ障害(DTD)の人は自分を落ち着かせることができるのでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人は、自分との身体との関係に配慮しているのでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人は、体力、活力、安らぎを養うために何をしているのでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人は、他の人たちとイキイキとしたやり取りをしているのでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人と知り合いになり、大事に思い、世話しようとする人がいるのでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人が怯えた時、その赤ちゃんが病気の時、自分が病気の時、発達トラウマ障害(DTD)の人たちは誰に頼ればいいんでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人たちは地元の一員なんでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人たちは、周りの人びとの暮らしに中でなくてはならない役割って、あるんでしょうか? 発達トラウマ障害(DTD)の人たちは、弔意を集中させて、選択するのに、特別な技術が要るのかしら? 発達トラウマ障害(DTD)の人って、目的意識ってあるのかしら? 発達トラウマ障害(DTD)の人たちが得意なことってあるのかしてら? 発達トラウマ障害(DTD)の人って、自分の生活は自分の責任でやってると感じるために、どんな助けができるのかしら?

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の人は、とにかく「半人前、問題児、厄介者」です。知らず知らずのうちに、相手にされず、遠巻きにされます。相手にされるのは、ダメだから、ほっとけない時だけ。否定的に関わられる時くらい

 このような対応が、一般的な対応ですが、発達トラウマ障害(DTD)をますます悪化させてしまいます。今、ニッポンで、発達トラウマ障害(DTD)の子ども達にやっているほとんど全部が、関わる大人が子どもっぽい人が多いことと相まって、発達トラウマ障害(DTD)をますます悪くする関わりだ、と言っても、少しも過言ではありません

 

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発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、甘えが足りない

2016-07-25 05:53:56 | ブルース・ペリー教授の『犬』

 

 

 
ルターが気付いた大事なことって?
  ルターは、神の領域とこの世の領域の2つによける「二王国説」を採りました。それは、「改革派は目覚めていたけれども、ルター派は眠っていた」とバルトが言う事態を、ナチス時代に......
 

 

   発達トラウマ障害DTD愛着障害の子ども。マッサージという簡単なことが、親子関係を改善するのに役立ちます

 ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第6章、本のタイトルにもなっている「犬として育てられた少年」のp.141の第2パラグラフから。

 

 

 

 マッサージによって親子関係をよくして、母親がセラピーに前向きになることは、コナーの場合、特に大事だったんですが、それは、コナーの母親が治療に対して、非常に不安を感じていたからです。結局、以前は、サイコセラピストも、精神科医も、カウンセラーも、善意の隣人も、教員も、「コナーの「赤ちゃんみたい」な行動を甘やかさないで」だとか、「コナーの癇癪を無視して」などと言い続けたんです。コナーは、甘やかさせるよりも、枠組みと制限が必要だ、という訳です。みんなが母親に「コナーは未熟だから、ロッキングや鼻歌の様な原始的な自己刺激のやり方を捨てさせなければならない」と言ったのです。いまは、私どもは、「コナーは、甘やかせすぎに見える位、優しく接してください」と申し上げています。実際、行動療法のセラピストが言うように、コナーの行動が脅かされて、コントロールが利かないものになりそうなとき、コナーを無視するんじゃんなくて、マッサージをすればコナーは「やり取りが出来るようになります」と私どもは言っています。私どものやり方は、直感に根っこから反しているように見えて、他に助けになるものが無かったので、母親はマッサージをしても良い、と言ってくれました。

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、例外なく、甘えが足りません。マッサージは、発達トラウマ障害(DTD)の子どもに足りない甘えを補うのに役立ちます

 

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ネグレクトと虐待は、続いている

2016-07-25 03:11:26 | トラウマを負う≪本当の自分≫を取り戻す

 

 

 
古老の知恵は、寓話に似てている
  昔は年寄りは、生きた知恵と静かに死ぬ死に方を知っているものでした。 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p62の10行目......
 

 2年前(2014年)、心理臨床学会の招聘講演で、発達トラウマ障害(DTD)について講演した、Ruth Lanius ルース・ラニウスさんらが昨年出した本、Paul Frewen , Ruth Lanius (2015) , Healing the Traumatized Self   consciousness, neuroscience, treatmet 『トラウマを負わされた自分に対する囚われから自由になること  意識、脳科学、治療』の翻訳。 発達トラウマ障害(DTD)のセラピーでも、≪約束≫と≪約束≫を支える信頼がものを言いますね。ウソとゴマカシでは、子どもを傷つけるばかりです。学校や病院などには、それにも気付かない、子どもっぽいバカな大人が多すぎですよね。 

 最終章の第7章、p.277の、ブランクの後の第2パラグラフ。

 

 

 

 

 

 ハーマン(1992b)達が示した、発達トラウマからの回復の標準的な段階に従ったセラピーに従えば、トラウマセラピーの第一歩は、セラピストとの関係においても、セラピー以外の人間関係においても、安心と安全を確かなものにすることに力を注ぐことです。(でもね、)セラピー以外の人間関係で安心と安全はあり得ないと気付くことが大事になりますね。トラウマを負わされた人たちは、親しい関係、家族関係、職場関係で、気持ちの上でも、身体的にも、性的にも、虐待され続けている、ということです。それは、サイコセラピーで過去のトラウマを負わされた出来事の結果を治療しようとした後でも、変わりません。

 

 

 

 

 

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもは、その振る舞いや様子が、なかなか理解できません。幼いころのネグレクトや虐待が、今の様子にと深い関係にある、ということが、全く理解されないからです。

 発達トラウマ障害(DTD)の子どもと大人の心理、それを社会にお知らせし続けないと、発達トラウマ障害(DTD)の子どもも大人も、浮かばれませんね

 

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笑う神の恵み

2016-07-25 01:56:13 | 聖書の言葉から

 

 

 
信頼があるほど、笑いがある?
  今晩は、「笑い」について、考えます。 日本で笑いと言ったら、吉本興業や松竹新喜劇の藤山寛美さんの笑いを思い出す人が多いかもしれませんね。テレビでは、その手の笑いが多......
 

 

  今朝も、Childhood and Society 『子どもの頃と社会』の至言は、一回お休みして、上のコラムにある リチャード・コート著 木鎌安雄訳の『笑いの神学』(聖母文庫)、Cote, Richard G. Holy Mirth: A Theoty of Laughter, The Alpine Press, 1986から。P.56の後半の至言から。

 

 

 

 

 

 笑う神というシンボルがあれば、人生には、日ごろ思っている以上に、希望が満ち満ちているという事実に私どもは気付くことができますし、また、人が生きている現状が、どんなに惨めであっても、その現状の中に、救いと究極的な解放の約束があるという事実に私どもは気付くことができます。笑う神というシンボルがあれば、私どもは、日々の暮らしの中に、欠点や根深い矛盾があっても、その欠点や深い矛盾に対して意識して目を注ぎ、全体の視座から見たら、(已むに已まれぬことかもね、という)福音的な視座に立つことができます。笑う神というシンボルのお陰て、私どもは、神と幼子に典型的な思い煩いのないスピリットをイキイキと身に着けることができますし、それは、一見、どうにもならない人生の試練に直面しても、「なんとかなる」と陽気で楽観的な生き方をイキイキと生きることができます。そうすれば、神が「空の鳥」や「野の花」を見なさいとおっしゃった意味が分かりますね。なぜ、神が、弱さこそが力のひな形となり、バカが神の叡智のお手本になるのですよ、と微笑みを湛えて仰せなのかもわかります(第1コリント、第7章17~31節)。

 

 

 

 

 

 

 あなたも、笑う神を信頼してはいかがですか?

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