エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #生きる秘訣その2

2019-03-17 04:20:30 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #1人豊か #スピリットのプレゼント
 聖書の言葉: ἀναγινώσκω 読む    「自分もこれからだ」と思える90歳でありたいね。   いのちの不思議、子どもと分かち合えたら、嬉しゅうございます ......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpediaと

発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典Weblio辞典

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生きているのに

死んでいるあなたへ

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

 

 

みなさん


本当に好きなことを


なさればいい

 

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#ニューロフィードバック訓練 #発達トラウマ障害治療に有効

2019-03-17 04:00:53 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#トラウマ卒業 #EMDRトレーニーになる #単純で正直
 現世考: 人殺し国家,ニッポン の奴隷たち    人生の酸いも甘いも汲み尽す意味に気付く、人智を超えた恵み   「あなたは特別です」 内村鑑三と教育 part......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 
 発達トラウマ障害を英語で・英訳 ‐ 英和辞典・和英辞典 Weblio辞典

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 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第19章。「応用神経科学:恐怖に急き立てられた心を脳にもう一回繋ぎ直す/コンピュータ関係工学」から。p.329,第4パラグラフ,下から3行目途中から。その前のP.329初めからも,ご一緒に。

 

ニューロフィードバック,PTSD,悪い習慣


 重度のトラウマを負わされた人の,おおよそ3分の1~2分の1の人が,薬物乱用になります。ホメロスの時代から,兵士は痛みやイライラや落ち込みを忘れるために酒を飲みます。ある最近の研究では,交通事故の半数は,薬か酒をやっていたからだといいます。アルコールの飲みすぎは,不注意に繋がりますから,またトラウマを負う機会を増やします(暴行されたときに飲んでいたら,PTSDにはなりにくいですが)。

 PTSDと薬物乱用との間には悪循環があります。様々な薬や酒はトラウマの症状を一時和らげますが,症状がなくなりますと逆に,過覚醒が増大しますから,悪夢,フラッシュバック,イライラが増します。この悪循環を断つ方法は,2つだけです。EMDRのような方法で,PTSDの症状を治す方法と,PTSDのよる症状であり,薬と酒を止めることによる症状である過覚醒を治療する方法です。ナルトレキソンみたいな薬を処方することは,過覚醒に効く場合もありますが,この薬を使うやり方が役に立つのは稀ですね。

 私が最初にニューロフィードバックをした女性の1人は,長くコカインをやる悪い習慣がありました。また,子どものころに,身の毛もよだつような性的虐待にもあい,捨てられたのでした。驚いたことに,この女性のコカインを使う習慣は,最初の2回のニューロフィードバックの後,きれいさっぱりなくなりましたし,その後,5年間関わりを続けても,コカインを止めています。重度の薬物乱用がこんなに短期間に治ったのを見たことがありませんでしたから,参考のため,関係論文に当たってみました。薬物乱用に関する様々な研究のほとんどは,20年以上以前のものでした。悪い習慣を治療するニューロフィードバックの最新研究は,少なくともアメリカでは,ほとんど出ていません

 解毒をし,アルコールや薬物の治療をしたと認められる人でも,その75~80%は再発します。ぺニストンとカルカスキーの別の研究によれば,その研究は,アルコール依存症とPTSDの両方に診断された退役軍人達に,ニューロフィードバック訓練をした効果を見た研究ですが,この再発の課題に焦点を当てました。15人の退役軍人が,アルファ波・シータ波訓練を受けて,コントロール群は,ニューロフィードバック訓練はせずに,一般的な治療をしました。研究に協力してくれたこの退役軍人たちは,その後3年間定期的に追跡調査されて,ニューロフィードバック訓練を受けた15人の内,8人がお酒を完全に止めて,1人がまた飲んで,具合が悪くなった後,再び飲まなくなりました。ニューロフィードバック訓練を受けた人の大部分が,うつが軽くなりました。ベニストンが言う通り,この変化は,「一層温かい心になり,一層筋道立てて考えられるようになり,一層気持ちが安定し,一層人との関係に勇気が持て,一層自由になり,一層満足するようになりました」に伴って報告されたものです。対照的に,標準的な治療を受けた人たちは全員,8ケ月以内に再入院しましたし。それ以来,たくさんのニューロフィードバックが悪い習慣を治療する研究が出版されましたが,ニューロフィードバック訓練を悪い習慣の改善に応用する方法の可能性と限界をハッキリさせるためには,さらなる研究が必要です


ニューロフィードバックの未来


 この数年の間,私の研究室は,発達トラウマを負わされた子どもと大人に対して,ニューロフィードバックの効果を研究しています。私どもが発見したのは,ニューロフィードバックが,人々の暮らしを大きく変える,大きな可能性があるものだ,ということです。ニューロフィードバック訓練を20回すると,お話し療法や薬物治療ではよくならなかった,発達トラウマを抱えた研究参加者のPTSDの症状が,40%減少しました

 

  ニューロフィードバックも,自分の脳波を画面で見る形で,自分のトラウマ体験を能動的に再体験するものです。ニューロフィードバック訓練は,発達トラウマ障害の治療にきわめて有効です。

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#人生の習慣 と #創造

2019-03-17 03:11:37 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #1人豊か #スピリットのプレゼント
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  発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。

 

 The life cycle completed 『聖書の神様の命が一巡することが,できた』 p.94の,4行目から,です。その前のp.87の第2パラグラフの9行目途中からもご一緒に。

 


 

でもね,「私が生きている実感」と「私たちが一心同体になって,ますます深まる生きている実感」が,共に復活して不動にされることに身も心も捧げれば,対人関係で起きていることを心理的に理解することにお役に立つだけじゃぁなくて,精神分析を用いた心理学によって,ことが起こる前に心が心底わかるための根本原理もわかりますからね。もちろん,「私が生きている実感」という言葉は,「あの」自我のことなるのか,それとも「あの」本当の自分のことなのか,私も言葉遣いの難しさに気付いています。それでもね,「私が生きている実感」を生かす心の習慣こそが,「自分自身」に目覚めて生きることであり,あるいは,聖書の神様の命が一巡する場では,様々な形で生きている実感がずっと続いて生きることになります。もっとも,生きている実感が様々な形になって表に出る,その全ては,共通して(恵みですけれども),「自分が生きている実感」を意識して活かし続けて生きることにほかなりません。「自分が生きている実感」を意識して生かし続けて生きることは,様々な自分の経験全てを,経験すると同時に,経験したこと全てを意識していることです。こうして,「生きている実感」こそが,結局は,ウソとゴマカシがない形で言葉で「私」と自分を呼んで確かめる基礎になります。「生きている実感」こそが,ひとりびとりが,分かち合える体験の宇宙の中で,目覚めていることの中心ですし,同時に,目覚めの中心でいることが,あまりにも,驚きと感激に満ち溢れたヌミノースなものなんで,「生きている実感」は,結局は,晴れ晴れと生きる心の習慣になりますし,さらには,生かされていることに「ありがたいね」と感謝する言葉を共に伝え合う心の習慣になりますね。同時に,2人でも3人でも,心響き合う人間に発達するイメージを分かち合い,祈り(あるいは,約束)を共にする者だけが,それぞれの「生きている実感」を,1つの「共に生きている実感」に融合して,一心同体になることが出来ます。もちろん,とっても大切なのは,「私」から,「私たち」へ,「彼ら,彼女ら」へと代名詞が,身体の働き方,姿勢や感覚の働き方,世の中の時間と空間の見方とやり取りする中で十二分な意味を成すようになる,2人が一心同体になって発達する在り方を,命が迸るほどハッキリと示すことでしょう。
 「私たち」に関しては,フロイトも「迷うこともないのは,ひとりびとりをキリストと繋げる絆は,ひとりびとりをお互いに繋げる絆に他ならない,ということです」(1921)とまで,言っています。でもね,今まで見て分かったように,フロイトがそう言ったのは,聖書を学ぶ集会や軍隊みたいに,「気高い場を創る」集団とフロイトが呼んだ集団について論じているときなんですよ。しかし,光は,皆が兄弟姉妹になるあらゆる一心同体は,両親から,創始者や聖書の神様に至るまで,聖書の神様から特別なスピリットを頂いた者達と一心同体になるかどうかで,成否が分かれます。あの異教の神に勝る,私どもの聖書の神様は,自分が導いたユダヤの民に教えなくてはならない立場のモーセに訊かれた時に,自己紹介して語った名前は,「私は,『私が今ここで生きている』というものだ」でして,ユダヤの民は,「『私が今ここでで生きている』ということは,私が皆さんへプレゼントするギフトですよ」と教えなさい,ということを示しています。「私が今ここに生きている」というギフトをくださり,復活の人生を実現する聖書の神様が下さるスピリットは,間違いなく,一神教のキリスト教が進歩する時,ど真ん中にあるものですし,父なる聖書の神様の光に従って,人々を1つの人類に結びつけることに広がります(エリクソン,1981 『エール・レヴュー』p.321-362 「ガリラヤのキリストの言い伝えと「私が生きている実感」に従う心の習慣」)。
 ここでまた思い出すのが,生まれたばかりの赤ちゃんと,最初の(お母さんみたいな)人が,まず初めに,互いに大切にし合うことには,聖書の神様から尽きることのない力がある,ということですし,結局は,その生まれたばかりの赤ちゃんの最後の相手は,最終的には,「最後の審判の時に出会う予定の聖書の神様」になりますから,皆さんの顔の上に,聖書の神様が心からの優しさに輝く顔で臨み,皆さんに心からの平和な気持ちと心から平和な関係をギフトとして恵まれます。聖書の神様が心からの平和な気持ち心から平和な関係を下されば,私どもは発達の全ての舞台を全うできるでしょうし,様々な話し言葉を与えられる中で,父親らしさ,母親らしさ,姉妹らしさ,兄弟らしさを含めながら,「私ども人類皆兄弟」が唯一の一心同体となって,実感のあるものになる道を,一心不乱に生きることもできるのにね。しかし,聖書の神様が心からの平和な気持ちと関係を下さる場合でも,実感のある現実という見方を1つも傷のない腑に落ちるものにすることは避けて通れませんね。生きている実感が,初めに申し上げましたように,「外側の世の中」に合わせなくっちゃ(訳注:忖度遠慮+共依存),ということがあまりにも多いからです。

    3重になった生きている実感のある現実

 エゴは,概念としても言葉としても,もちろん,フロイトさんが見つけたものです。スコラ哲学においては,エゴは,身体と魂が「一心同体になること」ですし,哲学では,概して,経験を意識していることが,「ずっと続いている」という意味です。ウィリアム・ジェームズ(1920)は,いくつかの手紙の中で,「発達するエゴが時空を1つにする」ことに触れているだけではなくて,「そのエゴは自分から関わりを広げること」についても,触れてますでしょ。この「そのエゴは自分から関わりを広げること」は,光の下に跪く人間は全うだという生き方そのものです。ここで,ウィリアム・ジェームズ(ドイツ語がよく分かっていましたから)は,創造によって魂の中に予め打ち込まれた≪私が生きている≫ことは意識せずに働いていることを思っただけじゃなくて,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることは,キリストのスピリットという光に下に跪き忠実に従うことだ,ということに思い至っていましたね。しかし,≪私が生きている≫実感を心の習慣にすることも,≪私が生きている≫実感が,実際に生きているかを測る中で,最も確かなも唯一の秤だとする生き方の中で,自分が体験したことを腑に落ちるようにする,エゴの無意識の働きの1つであるのは明らかでしょ。≪私が生きている≫実感があればこそ,力なく苦しむ人にならずに,「聖書の神様の命が一巡する場」を全うする人のように,ことが「うまくできてる」と感じられるんです。「自分から関わりを始めて」,「聖書の神様が創造の初めにした時に戻って,聖書の神様の命が一巡して,とっても良かったとなる」ことになり,引きこもってしまうこともありません(好きな言葉は「苦労を引き受ける」ということです,というのね,いわば,苦労を引き受ける関係を自ら始めることになります)。「自分が大事にされる」と「皆を仲間と認める」ことになりますから,端っこに引きこもってる場合じゃぁありません。「自分が選んでいる」のであって,どうすればいいのか分からずにされているんじゃありません。「正気でいる」のであって,心が病んでいるんじゃありません。こういった縦軸に伸びて,復活する発達は,いつでもどこでも,「住めば都,くつろいで自由でいる」ことができますし,自分で選んでいる時でさえ,「聖書の神様から,いつでも見守られていて,自分が選んでもらって,『とてもよかったよ』と歓んでもらった感じ」がします。
 そこまでいけば,とても善いですね。しかし,お気づきのように,人生の様々な舞台を生きて,聖書の神様が人間にプレゼントしてくれたギフト「生きている実感」が外に次第に展開していくことに従えば,人間の問いは,人間にとって根源的に確かな心の習慣は,人が繰り返し「新しい人」になり,生涯にわたって,仲間の数を増やすことですから,仲間の数が増えてますか?,ということです。その仲間は,自分の身近にいて,1人の「他者」として,人生の大切な時期に,「あの人のことね」,と分かる人もいれば,そのほとんどが,心の繋がりをなんとなく感じる人たちです。その仲間は,壁を作って私たちに反対しようとする場合でさえ,生きている実感を分かち合うことによって,ひとりびとりの生きている実感を確かにしたいと願っている人たちです。人間関係を心理的に見る視点があるからこそ,私が他の人に同調することを話すだけでは,実に不十分なわけです。といいますのは,あらゆる人間がピッタリとくっつくことは,諍いになりますから,私がピッタリとくっつくことを教えられる前に,すでにピッタリとくっつく様々な実験に夢中になり,一心同体になる体験を強烈に心に刻み付けてきているんですから。実際,フロイトさんが「リアリティ,すなわち,生きている実感」に相当するドイツ語は,Wirklichkeit(「うまく働く」ことと関係します)には,受け身の関わりを自ら始める意味と,働き掛け合う意味がありますから,ふつうは,「アクチァリティー,自ら関わる現実」と翻訳すべきですし,「互いに,自ら関わりを始める」意味に理解すべきだと,私は考えますね。
 ですからね,生きている実感は,≪共に居る≫ということが,一杯ある,ということが,欠かせない,と言われます。≪共に居る≫ことができるのは全て,2人の心が自由にされる,2人がピッタリとくっつく場では,(訳注:目的も方法も知らない)動物の本能とは対照的に,心の中で聖書の神様が促す,唯一の内的促し次第ですから,その内的促しにしたがって,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりが,発達の間,その子どもの思い通りに手に入る,という(訳注:目的も方法も自覚した)「魂を貫き通す,聖書の神様が下さる一方的な約束」のおかげですし,心から歓んで関わりを始めて貰える関わりは,人が輝き共に育つ際に,大人の人たちが,謙虚に子どもの下に立ち,子どもに夢中になること(洗礼に与ること)に,とても役立ちますこのようにしてもらうと,その子どもは,「人を自分のように大切にする」ようになる,と言われます。それはちょうど,自分が,名前を呼ばれ,大事にされ,気持ちを分かってもらったのにビッタリ同じように,人も大事にするようになることですし,聖書の神様の命が一巡する時,互いに大切にし合う生き方が,心の中に育まれるんですね。
 生きている実感を育むためには,≪共に居る≫ことが欠かせない3次元について,様々な事実がある,人が育つ「出会い」という日常世界では,「関わり合う」ことが一番強調されます。なるべく,歪めたり,蔑ろにすることなく,なるべく,肯定して,「関わり合う」ことは受け止めるべきでしょう。それは知的発達の舞台でも,科学技術や化学の舞台でも,同じです。
 「生きている実感」という言葉の2番目の隠されている意味は,「なるほどホントだね」と腑に落ちるほど,聖書の中で教えられていることが,「なるほどホントだね」と分かる2人が一心同体になることに体現して,聖書の話し言葉と出来事がピツタリと一致して「なるほどホントだね」と分かる習慣(大なり小なり,驚きますね)です。「なるほどホントだね」と分かることは,唯一の真実の価値ですから,1つの話し言葉と心響かせる大人に発達するイメージを掴んだ人全てが,「なるほどホントだね」と分かります。「腑に落ちる」(アインシュタインは「Begreiflichkeit ドイツ語で『腑に落ちる』」と言います)生きている実感のこの側面にピッタリした言葉でしょうね。もう1つの話し言葉は,もっと目に見える,「うまくできてる」です。というのも,「うまくできてる」は,様々な事実が見事に織り上げられているので,様々な事実が聖書の神様からのメッセージを示していると分かります。「関わり合う」「なるほどホントだね」と腑に落ちる「うまくできてる」,の3つの次元で生きている実感が,主たる発達の様々な舞台で,2人が響き合うようにし続ければ,その時だけ,心から自由にされた大人の人生の習慣(倫理)が間違いなく親から子に受け継がれます。この心から自由にされた大人の人生の習慣がありますと,たくさんの自由にされた仲間達は,それぞれの持ち味を最大限発揮して(訳注:,創造の心からの歓びに与り),生きることができます

 

 命が育つ視点として,生きている実感こそは,ですから(生きている実感が,そのものズバリに,「聖書の神様の命の通り道」と呼ばれるとしても),うまくすれば,森羅万象すべてを包み込む創造の源になりますから,生きている実感を生きる人は,人を不動にする場を選ぶことだけに,練達した意識を集中します人を不動にする場は,「うまくできてるね」と実感する心の習慣を益々高める,言ってることとやってることが一致した生き方ができる心から自由にされた見通しを持つことができますし,復活して不動にされる働きに2人が共に身も心も捧げることによって,友愛精神を実現するのを人生の習慣にすることができます

 人が心響かせることができる大人になるイメージは,究極的には,ひとりびとりがお互いが共に発達する予定です。人が心響かせることができる大人になるイメージは,日々創造されるたびに,毎日「新しい人」になる予定です。私たちの人生の様々な時期を振り返ると,身体が響き合う仕組みから,姿勢や感覚が響き合うようになり,生きる指針にまつわるぶつかり合いから,人の関係を心理的に見る見方が様々にぶつかり合うことへと発展しましたね。また,私どもが示そうとしたのは,心響かせる大人になるイメージは,互いに大切にし合う関係になるのか,互いに支配する関係になるのかを実験する様々な実験全てに,相手を省みて,聖書の神様の命が一巡する2人とど真ん中のキリストをもたらします。相手を省みて,聖書の神様の命が一巡するときにだけ,ひとりびとりの≪生きている実感≫は,この世に中で生きる,細やかながらも素晴らしい向き(方向感覚)を身に着けて,人とも分かち合うようになります。そこで,心響かせる大人になるイメージを研究することは,ひとりびとりの≪生きている実感≫が,時間と空間に対する根源的指針になる態度を必要としているところから始めなくてはなりませんし,この時間と空間に対する根源的な指針になる態度とピッタリと結びついた物の見方を与える仲間のやり方にも通じます。来る日も来る日も,行く年来る年も,務めを分かち合い,日々の礼拝を分かち合います。境まで,カイ・エリクソン(1966)の意味で「境界線」まで。境界線で,「よそ」と「他人」が始まります。

 私自身が,このような聖書の神様の命が一巡し,ひとりびとりが生きる指針となる時間と空間に対する態度を身に着けて生まれ変わる場を,ひとりびとりが復活しない生き方の中でだけ描くこともできますけれども(エリクソン 1974; 1977),アメリカ人の生き方の中に発達する見通しを描く時に,私が確信するのは,臨床的に心から自由になる毎日礼拝をすることが,ひとりびとりが,不動にされ,いつもお互いに心響かせ合う人になる中で関わり合う,という最深欲求に繋がる,無意識の,あるいは,なかなか本人も気が付かないことを,見通すのに不可欠な心眼を得るのに,お役に立つ,ということです。というのも,その心眼元々打ち込まれている様々な諍いと,破壊的になる様々な二項対立の中で,2人が,身体と身体,関係,自分と自分を,心響かせ合って,互いに相手の足りないところを補い合うことを,命がけで目指すこともできますから。このように命がけで努力すれば,時代が異なれば,心が自由にされて,自分の育ちに意識の目を向ければ向けるほど,これまでの聖書の神様の御心や心の習慣にも意識の目を向ければ向けるほど,それだけ良い実りを手にすることになることでしょう。しかしながら,子育てに対する見方が一新されて心から優しく気高き心眼だけが,ひとりびとりの発達の一コマ一コマが,聖書の神様を信頼する信頼が繰り返し再生して不動にされる中で示される聖書の神様が創造するという大きなご計画と,ピタリと噛み合っていることと,聖書の神様が創造するという大きな計画から広がってもいる,ということを示すことができます。


 時間と空間に対する根源的指針になる態度と倫理学


 自分が時間と空間に対する態度とが力強く関係することに関して,精神分析の中で一番中身のある言葉は,おそらく,フロイトの論文「心から自由になる新入門」です。

 「えてして,親や親に似た権威は,子ども等を教育する時に,親たちの超自我の命令に従うものです。…このようにして,1人の子どもの超自我は,実際,両親のひな型ではなくて,両親の超自我がひな形です。子どもの超自我の中身は,同じで,伝統を伝えると同時に,世代から世代へと伝わる価値に抵抗する判断にもなります。」(1933)

  ここには,ご承知のように,フロイトさんが,ひとりびとりの超自我の中に,歴史の流れのいくつかの側面があることを指摘しています。1つは,超自我が,心の中の本当の自分に「だめだ」といって,様々な圧力をかけている,ということですし,「本当の自分を貶める」ことで本当の自分が死んでしまうことがないように,超自我が自分に圧力をかけてくることから自分を守っている,ということです。フロイトさんがそこで短く発破をかけたのが,「歴史をザッハリッヒにみる見方」です。つまり,フロイトさん曰く,「普段の生活で弱い立場(の子ども)をぶつこと」を光らせたんですが,「人が『願う思惑』とは,今の経済的条件が作り出した産物であり,上になることに他なりません」と主張したからです。

 「それは本当です。しかし,おそらく,全部が真実,というわけではないでしょう。人間は,いまここを完全に生き切ることはありませんから。過去,つまり,部族や民族の伝統は,超自我の思いの中に生き続けます。それに,過去は,現在の影響や新しい変化を,少しずつしか許しませんからね。ですから,過去は超自我を通して人間に働きかける限り,過去は人間の暮らしで強烈な働きをしますし,経済的な条件と無関係です」(フロイト,1933, p.67)

 

 このフロイトさんの言葉は,聖書の神様の命が再び一巡する力と生き方を,心理学的に追及する上で,とてつもない意味がありますでしょ。でも,一番ビックリするのは,ひとりびとりの心が聖書の神様の命が一巡するように作り直す際に,精神分析家が肝に銘じておくべきは,超自我である良心の役割は,伝統を運ぶ乗り物として,変化と心からの自由を押さえ付けるものだ,ということも,フロイトさんのこの言葉は示していることです。フロイトさんが明らかにした歴史的な大きな流れは,心から自由になることを求める時に,心の中にある諍いを反映したものです。心響かせる大人に発達する視点からみた場合,私がぜひ強調しておきたいことは,自我を上に立つ悪い良心の中にあると気付いた,子どもの頃の様々な未解決な問題は,フロイトさんの教え通り,生きている様々な偶像を反映するばかりではなくて,すでに自分勝手な「ねばならない」を強調することを習慣にする道徳主義である,昔ながらの偶像だ,ということです。というのも,自分の上に立つ悪い良心は,空想がちなエディプス期(訳注:4歳,5歳のころ)と,子どもの危機の「生きている実感に従って良しとする心の習慣」対「生きている実感に従ってはだめだとする心の習慣」とを動的平衡を保ったものですが,特に,禁止,禁止と禁止を強調しがちです。この禁止の束が,唯一絶対の聖書の神様が,大いなる優しさを創造し始める時に,邪魔をしますし,1つの「正しいこと」を作り出して,「正しい行い」を目指す生き方さえ作り出します。

 これまでお話ししましたように,青年期は,新たに創造する空想とエネルギーをまとめるのにピッタリな,新しい深いイメージを共に知り,心魅せられて生きる生き方を育てる時期です。自分の大切さを認めてもらいながら(あるいは、認められないまま),青年期は,復活しなさいという聖書の神様の命令に従うことになるか,それとも,聖書の神様の命令に反抗することになるかのどちらかになるでしょうし,そして,将来を,創造する生き方をするのか,それとも,ねばならない「正しいこと」を目指す生き方になるのか,のどちらかを約束するものになりますし,このようにして,何と一心同体になるのか混乱した状態に打ち勝つことを助けます。しかしながら,青年期を超えて,大人の時期にも,唯一の「人生の習慣」を作り出すキリストの力を割り当てることができるでしょう。この唯一の「心の習慣」は,大人が創造することになる,子ども等との関わりにもピッタリ響き合いますし,決して裁かれることも裁くこともないいまここにピッタリと従って,息を合わせる大人になる,という聖書の神様のご計画にも,ピッタリ合っています聖書の神様の命が一巡する場に子ども等を導く者たちは,聖書の神様のご計画を必ず発展させますし,聖書の神様のご計画を必ず実行します。それは,正しい行いを習慣にするというだけではなくて,馴染んだ場で,共に相手を心に留め合って大切にし合うことになります私どもが自由になる心眼によれば,創造する時空の指針が示す新しい黄金律は次のようになります。すなわち,互いに,自分が一層自由になるように,相手の人が一層自由になることをしなさいな)[エリクソン 1964]。

 ここでも,これまでのところでも,ぜひ忘れずにいたほうが善いのは,人生の様々な舞台は,人間が,心の習慣のある生き方,理に適った思いで生きる生き方,人生の習慣のある生き方をするためにこそある,すなわち,子どものころ,青年のころ,大人のころを「日常生活を礼拝にする」ためにこそある,と概観する時,日常生活を礼拝にすることに伴う,3つ危険な形ばかりの礼拝,すなわち,正しい行いを目指す生き方,全体主義,権威主義になる場合があると警告したことです。また,もう一度思い出すと善いかもしれませんよ。すべての発達と創造の場は,聖書の神様が予め天から創造されたものだ,と見る誓いを善く見て知ることです。善く見て知ること:

    1           2           3

 Ⅲ                          人生の習慣

 Ⅱ              理に適った思い

 Ⅰ  心の習慣

 

 

 このように,人生の習慣は,心の習慣と理に叶った思いを日々重ねた歳月を経て,ようやく身につくものです。人生の習慣は,聖書の神様の創造の御業そのものです。

 

 

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#心響かせる大人になること と #聖書の神様の信頼 #その不思議な縁

2019-03-17 02:18:42 | エリクソンの発達臨床心理
 
#創造性の淀み #相手を撥ね付けたい気持ち と #日常生活を礼拝にすること
 インターメッツォ: エリクソンの叡智: サイコセラピストの務め    ウソとゴマカシだらけのニッポンの、反面教師 「あなたは特別です」 内村鑑三と教育 par......
 

 

「発達トラウマ障害」Enpedia と 

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 Young Man Luther 『青年ルター』p.213,第4パラグラフから。p.212の第2パラグラフからも一緒に。

 

 

 

 

 

 これって,互いに仮面を被って相手に合わせたフリをし合う見方全ては,無意識から出たウソなのかしら?マルティンは,息子として,個人的に,深く苦しんだのは,自分が信頼感が豊かであることは本物だ,ということを父親に認めさせることができなかったからでしたし,生まれながらに,「子どもなんだから,ずっと私に従ってればいい」と,父親から言われ続けたからです。そのマルティンが,いまは,宗教的に,子どもとして,自ら歓んで生みの苦しみを引き受けているように思いましたが,それは,長すぎるくらい息子として苦しんだことが,自分がキリストのスピリットを示した勝利になってたんだ,と今は思えます。最初のおミサで,祭壇に正対して,すなわち,天の父なる聖書の神様に正対して,この世の父の怒りに正対するのを待ちながら,キリストがど真ん中に立つ人であることに関する聖句を「見落とし」てきていまし。しかしながら,キリストが自分の中に共に居ることに気付いた今,マルティンは,生きている実感を失って共依存するしかない生き方を超えて,心の中でホッとできる場所を見つけました。マルティンが見つけたのは,聖書の神様の声を聴く人が聖書の神様と一心同体になる神髄ですから,マルティンは,聖書の神様の御心を一歩前に進めたことになります。

 

 …キリストは,キリスト者が一心同体になる際に,自分を空っぽにする心深く秘めた大いなる優しさに,今やなりました。キリストは,いまここで,私の中に私と共に居るのです。自分を空っぽにすることを歓んで引き受けることをよしとすることが,毎日の十字架になりますし,毎日の十字架として自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が,(訳注:旧約聖書の時代に)他の人を犠牲の捧げものにした代わりに,最高に能動的に,キリストが最高に生きて,自分を空っぽにして生きる,ということを善しとすることになります自分を空っぽにして生きることを善しとしたおかげでキリストが選んだことを自分でも選んだことになつて,聖書の神様と一心同体になって復活する晴れ晴れとした生き方が出来ます。

 

 人類が救い主として崇めた人たちは,決して朽ちることのない言葉の中で,自信をもって,自分を空っぽにすることを善しとする人は,なるべく自分にもウソは言わないし,なるべく人の弱みにも付け込まないことになるっている,という心眼を体得し,体現します。そのウソのない救い主たちは,不思議な声で,大切なことを証明するわけです。その不思議な声は,遥か彼方まで,世の終わりまで,届きます。人類が救い主として崇めた人たちが自分を空っぽにすることを歓んで引き受ける情熱が含む原理は,自分で選んでいる原理,キリストが生きる原理,何物にも支配されない自由になる原理であり,遅かれ早かれ,最高の王の名を手に入れます。いばらの冠も,救い主に従った者たちのティアラになります。しばらくは,ルターは聖書の神様の命が一巡する最初の単独者になりましたし,あの救い主を,ティアラや日曜礼拝や人間を上下で見るウソや思想警察から,救い出して,救い主であるキリストが復活する場である,ひとりびとりの魂に連れ戻したんですね。

 

 ルターが救い主であるキリストをひとりびとりの魂に連れ戻したことって,意識のレベルでは,ルネッサンスの人間主義と対の関係になっているのではないのか? ルターは,目に見える様々なことは科学に任せて,自分は,空っぽにすることを歓んで引き受けることと,聖書の神様を信頼すること,すなわち,自分が本気になっていることに,集中しました。自分の父親や教父たちの,あの顔と,天にまします父なる聖書の神様の,あの顔を曇らせていた怒りの雷雲を追っ払ったルターは,いまは,キリストのように自分を空っぽにする大いなる優しさを体現する生き方そのものが「いつでもどこででも」聖書の神様の顔だ,と言ったんです。大文字のパッション,すなわち,キリストの十字は,人間が聖書の神様についてる知りうる全てです。人間の様々な諍いは,正面から正しく,諍いの顔を見れば(諍いを直視すれば),人が自分自身を知りうる全てです。最後の審判は,いつでもどこででも,いまここでの自己判断です。キリストが生きて死んだのは,人間が将来の最後の審判に怯えて,貧しくなるためじゃない。人間がいまここで自分を空っぽにしてキリストの大いなる優しさに満ち溢れて,最高に気高く浄めらて生きるためです。「御覧なさい」。ルターはこの詩篇(ルター全集 第4篇87節)の聖書の話の中で,ある時,言いました。「至る所で,いろんな画家たちが,キリストが自分を喜んで自分を空っぽにしたことを,まるで,パウロが『十字架にかけられたキリスト以外には何も知らない』と言ったことに賛成しているみたいに,描いているでしょ」と。息の点でルターに一番近い芸術家は,デューラーでしたが,デューラーは,自分の顔をキリストの心から優しい顔の中に刻み付けました(自分の顔まで空っぽにして,キリストの顔を自分の顔にしたくらいです)。

 ルターが神学的にことを進めた良さの特質は,あらゆる人が歩むことになっている,心響かせる大人になる中での確かな歩みになぞらえることができます。すなわち,父なる聖書の神様が生きている実感そのものであることと,神の一人子キリストが自分を空っぽにして,生きている実感である聖書の神様を実現した,その関係を内面化することです。その時,母子2人は,良心を共に善い良心にして不動にすることです。また,1人の勤めを果たすものとしても,スピリットのある1人の人間としても,聖書の神様と一心同体になることを,完全に全うすることもできます。また,聖書の神様を根源的に信頼することが,母子2人とも,共に繰り返し確かにされることでもあります。



 心響かせる大人になることが,いかに聖書の神様と不可分に結びつき,人が共に成長することとも不可分に結び付いていることが,手に取るように分かるところですね。その不思議な縁ですね。

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