エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #不思議な出合い

2019-12-17 06:59:53 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #1人豊か #森羅万象
  マハトマ・まど・みちおさんのことばから。 山川草木すべてのものにいのちがあります...
 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

をご参照ください。



生きているのに

死んでいるあなたへ



マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。






ここに自分が感動したんだ

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#歩み寄る2人

2019-12-17 06:54:00 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
#臨床が軽んじられる医療 #野村実先生の思い出
 #発達トラウマ障害DTD #身体の悪影響大 #ガン #心臓病 #自殺 #リスク増大 #認識不足なニッポン インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 2歳の子どもと......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。  
 
 
 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 
 
 
 
 p.113のブランク後から。
 今朝は,p.114の第3パラグラフ,11行目から。
 
 
 
 
 
 
心響かせることに身を入れる
 
 
 子どもたちは,お母さんみたいな世話をしてくれる方にならどなたにでも,くっ付くようになります。しかし,そのくっ付くことの本性から,それが安心できるものでも,安心できないものでも,1人の子どもの人生の行程は,天国と地獄の差ができます。子どもが心から安心できるくっ付きができるのは,子どもを世話することが,子どもの気持ちに心響かせることが含まれる場合(訳注:だけ)ですからね。心響く関わり合いが始まるのは,赤ちゃんと母親の間にある,目には見えない身体レベルのやり取りからです。お母さんに心響かせる関わりをしてもらえると,赤ちゃんは,ピッタリと一心同体になり,分かってもらえた,という気持ちになります。エディンバラ大学でアタッチメントを研究するコリン・テレヴァーサンの話では「脳は,身体がリズムのある動きをするのにピッタリと響かせますし,リズムのある自分の身体の動きを,他の人の脳にピッタリと響かせるように,動かすようにもします」ということです。赤ちゃんはお母さんのお喋りを音楽みたいに聴いたり,受け止めたりします。お腹の中でも。
 第4章で,私はミラーニューロンを発見した話をしましたね。ミラーニューロンとは,脳と脳が結び付いていて,共感できるようになっている,というものでしたでしょ。ミラーニューロンが働き始めるのは,赤ちゃんが生まれた直後からなんです。オレゴン大学の研究者のアンドリュー・メルツォフは,生まれて6時間の赤ちゃんに向かって,唇をすぼめたり,舌を出したりすると,赤ちゃんは,すぐに鏡になって,唇をすぼめたり,舌を出したりしました(生まれたばかりの赤ちゃんは,20センチ~30センチの範囲にあるものしか見えませんが,それは,自分を抱っこしてくれる人を観るのには十分なんです)。真似をすること,私ども人間に与えられている一番根っこにある人と関わる術です。真似が根っこにある人と関わり全て術ですから,親や教員や仲間の行動から,選んで真似しているんです。
 親は自分の子どもと自然に関わる人がほとんどですから,どうしたら心響く関わりが展開していくのか,気が付かない場合がほとんどでしょう。ところが,お友達から誘われますと,アタッチメント研究者のエド・トロニックが観察するチャンスをプレゼントしてくれたのですが,どうしたら心響く関わりが展開してくのかを,もっと注意して,気付くことができます。ハーヴァード大学人間発達研究所のマジック・ミラーを通して,私が見たのは,生後2か月の赤ちゃんと遊ぶ母親でした。その母親は,助けられて,自分と正対して座る赤ちゃんと共に居ることができました。
 2人は,お互いに優しい声で囁き合い,素晴らしい時間を過ごしていました。その素晴らしい時間は,お母さんが赤ちゃんに身を近づけて,赤ちゃんが興奮して,お母さんの髪の毛をぐいと引っ張るまで続きました。お母さんは,思わず痛みにギャッと声を出して,赤ちゃんの手を振り払います。その時お母さんの顔は,痛みで歪んでいました。赤ちゃんはすぐに身を離して,2人は互いに身体がバラバラになります。2人にとっては,歓びの源は,同時に,悩みの基でもあるからです。赤ちゃんがヤッパリびっくりしましたから,お母さんの怖い顔を遮るために,顔を両手で塞ぎました。そのお母さんも,赤ちゃんがびっくりしたのに気付いて,また赤ちゃんに意識を集中させて,関係を良くしようとして,赤ちゃんにをなだめる声を出します。その赤ちゃんは,まだ両目を覆っていましたが,お母さんとの繋がりを願う気持ちが戻ってきました。赤ちゃんは安心しても大丈夫か確かめるために,お母さんの顔を覗き込む一方,お母さんも,気がかりな声かけをしながら赤ちゃんに歩み寄ります。

 
 
 
 ハプニングがあっても,赤ちゃんもお母さんも,繋がりを回復することができます。
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#挫けない力の源

2019-12-17 06:36:00 | エリクソンの発達臨床心理
 
#臨床が軽んじられる医療 #野村実先生の思い出
 #発達トラウマ障害DTD #身体の悪影響大 #ガン #心臓病 #自殺 #リスク増大 #認識不足なニッポン インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 2歳の子どもと......
 

 

 「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。

    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.42の第2パラグラフから。

 今朝は,p.45の,第2パラグラフ,5行目から。

 

 

 プラトンが教えている「跳び上がるほどの心からの歓び」については,後ほど申し上げることがあります。聖書の神様がまします今,もう一度,無心になって子どもを大切にすることに心からの歓びが母親に満ち溢れるシャローム平和が,子どもも母親も共に創造して発達させくれること(私ども夫婦が始めた遊び療法)と,そのシャローム平和(遊び療法)が魂に刻み付ける一番の人品に立ち返りましょうね。遊びと呼ばれる,遊びに見える,遊びのように感じる,相手にピッタリと息を合わせる生き方の光から,私ども夫婦が照らし出したことが示しているのは,人間らしい気高い力です。 その人間らしい気高い力とは,人間が,子どもの頃に想像力を働かせて夢中になって育つ世界の中で,聖書の神様のいのちを一巡させて,発達させることに根差している力ですが,聖書の神様を信頼する仲間になる信頼が封印されているものを使って,結界の中で心に浮かんだ聖書の神様の舞台の啓示を,繰り返し受け容れる力です。私どもが確かにされるときに、聖書の神様の舞台が私どもの魂に打ち込まれる(訳注:正確には,「打ち込まれていることに気付く」とすべきです。なぜなら,気付くと気付かないとにかかわらず,尊厳はすでに打ち込まれているからです。)のは,相手の魂に心響かせることができる大人が,聖書の神様に祈り求めているからです。ですからねぇ、必ずしも,自ら望んでした星周りではありません。聖書の神様がまします結界の中では,私ども人間は,聖書の神様のいのちが一巡する(ように,後ほどなる)器になりますから,いまここが,いつどこででも,毎日礼拝が生まれる場になります。ところが,人々が,なるほど本当だなぁ,と信頼するようになるのは,聖書の神様のいのちが一巡する場で,2人が共に創造発達することって,誠実に相手を自分のように大切にすることに夢中になって,晴れ晴れと歓ぶ毎日礼拝の元があって初めて,形の上でも中身の上でも,その創造発達が,驚きと感激,という最高の恵みになる,ということです。おもちゃの舞台に当てはめてきた,大切な善い意味は,真新しいチャンスに挑戦する勇気を示している,ということです。聖書の神様がまします場では,スピリットと身体とが,確実に大切にし合うようになれば(訳注:イエスのスピリットが受肉すれば)いいのになぁ,あるいは,何年にもわたって訓練して,キリストに従って,自分を引っ張り上げることから仲間がギフトをもらえたらいいのになぁ,に,挑戦する勇気です。

 

 陽気で楽しいことが進むところではいつでも,遊びの偉大な理論家、ホイジンガが見事な要約の中に入れた,遊び場の視座があります。「あらゆる遊びは,あらかじめ区切られた結界の内側で動き,育ちます,それは,物の面でも,物事の見方の面でも,遊びが育つ,ということですし,完全に自由になるためにも,発達して心響く大人になる1人の母親としても,遊びが育つ,ということでもあります」と。ホイジンガは,この魂の中で遊びが育つ一筋の光に名前を付けました。「土俵,トランプ台,マンダラ,礼拝所,舞台,間仕切り,テニス・コート,裁判所等は,全て,形の上でも働きの上でも,遊び場です… 仲間から離れて立たされて,結界となり,気高くされる遊び場ですし,その中で,気高くなる人生の習慣を手に入れます。」全ての遊び場を,ホイジンガは,「つかの間の世界」と呼び,「そのつかの間の世界の中で,日常の世界は,シャローム平和を完璧に実現する努めを2人が別々に無心に行うことに,捧げられます」としました。

 

 私どもが発達する時に,遊び場を自分で選ぶようになります。いまここで私どもが指摘しておきたい唯一のことは,陽気で楽しい歓びの舞台と子どもが時間と空間を経験することには,たった一つの気高い関係があるということです。私は『子どもの頃と仲間たち』の中で申し上げましたように,子どもの頃の「演じる」遊びは,「過去を生き直し,現在を繰り返し目の前に表して,繰り返し新鮮にして,未来を先取りして確信する生き方を創造する人間の心の習慣の子ども版」を下さいます。人間すべてが本当の自分を生き直す場を育て始めましょうね,陽気で楽しい歓びのおかげで2人が共に本当の自分を生きることができる,ということを目の前に見ながら…。

 

 聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中に諍いがあって,それこそ,その子どもが切り抜けなくてはいけない「人品を育てる時の危機」の特色になります。ロバートの積み木の中で,背が高い積み木は,私ども夫婦が申し上げていることですが,本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れるものだ,ということを示しています。本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れますと,舞台袖に隠れている諍いやトラウマに打ち勝つことができます。聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中では,発達創造途上の男の子が1人いるイメージ,すなわち,キリストだけがまします。この発達創造途上の男の子は,身体の美しさと強さを,頭で理解し学ぶ力と,ピッタリと一心同体にする新しい生き方を体得底で身に着けることになります。しかしですよ,私ども夫婦が心掛けてきたことですが,この少年の身体が示すことと、少年の心が苦しんでいることとに真に折り合いをつけることに思い煩っていることは,この子の育ちと対人関係の場に、相当広がっています。この,ラテン語でpuer novus 「新しい少年」って, 聖書の神様のいのちが一巡する結界では,1人の「新しい人」,すなわち,1人の自由にされた大人,キリストが誕生するイメージがありますでしょ。もしも,キリストが生まれるのがアーメン本当ならば,あの先生の言葉(訳注:「学校は,あなたの身体と脳が助け合うようにすることをお手伝いする所よ」)は,聖書の神様に敬意を払う,自由な新しい人が生まれることを預言する言葉に,なんとなくなりますね。 すべては,小さな世界の中で,真新しい仲間と繋がる真新しい私を試す1つの実験です。このように岩盤になる結界は,しかし,過去に負わされたトラウマに立ち返って,聖書の神様のいのちがこの世界で一巡する場を2人が共にすることにもなりますし,将来の酸いも甘いも(訳注:最後の審判,閻魔様 楽しみでもあり,怖い)頓着せず,2人とも心から自由にもなれます。ここで私ども夫婦が謹んで受け止めた唯一のことは,この5歳の男の子が先生に零したことには,様々な大事な危機が隠されている,ということです。つまり,この男の子が「くっ付いて離れられない」過去に縛り付けられていて,身体と頭が一緒に働かせることができないでいたとしたら,どうなるのでしょうか? それから,この男の子が新しい子になろうとしているのに,この男の子の手には負えない周りの者たちが,男の子の根源的信頼(あるいは,アタッチメント)が創造発達するのを手助けする名付け親になるのを嫌がっていたら,どうなるのでしょうか? その男の子は,生きる値打ちのない者でしょぅか,生きる値打ちのない者のままでしょうか? 結局,ガラクタになっているんでしょうか? ところが,ロバートの本当の自分をハッキリと示す心響かせる身体の動きは,両手を広げて,天使のような微笑みも湛えつつ,大事な人から,大事にされて生きてきたことも確かにありますよ,ということも,それとなく示していますね。このように良かった経験を過去にしてなければ,未来はほぼ開かれません。このように,過去の悲しき運命から繰り返しジャンプすることが,いまここで,陽気で楽しい歓びを下さるキリストによって,聖書の神様が約束した新しい人に回心することをプレゼントしてくれます。(訳注:聖書の神様の圧倒的で静かな恵みに気付けば,)私ども人間は,2つに分けるウソに侵されていない,真っ当な人に成熟することができるんです。すなわち,私ども人間は,人をいつも大切にし,いつも大切にされる者になる恵みが,いまここにいつでも何度でもあるんですよ。この中にある祈りのゆえに,子ども等の顔には忘れがたい微笑みを微笑みますし、私は内心,「やったぁ!」と言いますね。それは,子どもが自分の遊びの作品と至聖所を完成させて,「できた」と言う時なんですよ。

 非常に神話的な言葉を私が使っている,ということを,自覚していますよ。子どもの言葉遣いにとっては神話的すぎかもしれませんが,子どもが実験しているいろんな気持ちにとっては,神話的過ぎることはない,と考えます。と言いますのも,子どもの遊びの中には,重々無尽に気付く人間らしい心の習慣を自分で育てることがある,と見えますから。重々無尽に気付く人間らしい心の習慣は,生涯を通じて,やり取りをする相手が次第に広がる中で分かち合うことになります。つまり,目に見える形で,聖書の神様が「とてもいいぞ」と認めて下さる生き方で,友達や先生が「とても善いよ」と認めてくれる生き方を共に創造することです。その友達や先生が,その遊んでいる子どもを手助けしたのは,1人ではできなかったこと,すなわち,驚きと感激を味わい,生きている実感が漲る約束を信頼することでした。生きている実感が漲る約束って,破滅的な力を内に治めることができると確信することです。

 



 不安や悲しみ,それに伴う,激しい怒りや憎しみ。

 そんなものには撃ち負けない助けを下さるのが,キリストです。

 
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#心から優しい人間になれますように

2019-12-17 06:17:25 | エリクソンの発達臨床心理
 
#自分自身になる #人生の目的 #聖書の神様の創造
 #エリクソンの叡智 #神様の約束 #今から始まる未来 #新しい人生 現世考 : タカエとアシオ   魂の教師=ウソを言わないこと   希望の源は光(子どもをハッキ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
  
 
identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
 p.105のタイトルから。
 今朝は,もう一度,p.106の,第2パラグラフ,6行目から。
 『新約聖書』にある、パウロさんが書いた「エフェソ人への手紙」第2章のギリシャ語(コイネ)を訳しなおした成果です。
 
 
 
 
 
                       結論
 
 
 シャローム平和になる中で,倫理学から心理学を区別する境界線を大きく踏み越えているところに来ています(その境界線を長年にわたってすでに繰り返し踏み越えて来た,という人もいます)。 しかし,親たちや教員たちや医者たちは,子どものニーズや課題を議論したいと思えば,(訳注:大人の私どもが)繰り返し生まれ変わり,ピッタリと一心同体に成る役割を分かち合う生き方ができているかどうか?,が,その子どものニーズや課題を生み出していること,を議論しなくてはならないとお示しする時,私自身本当の自分を不動にしてくれているものは,2つ3つのスピリットにある心眼だけですから,結論として簡明にまとめてみましょうね。
 この20年30年で私ども夫婦が学んできたことは,人類を上下2つに分けるウソに侵されていない真っ当な人は,発達し成長する,ということと,その真っ当な人が行動する動機(特に,ご本人も気付かない動機です)についてでしたね。それは,私どもの目の前にある人類の歴史を振り返っても,この20年30年の学びの方が上を行っている,ということです(もちろん,聖書やシェークスピアにある英知の極致は例外です)。たくさんの人が腑に落ちたことは,子どもは,いや,赤ちゃんでさえ,(おそらくは,お腹の中の赤ちゃんでさえもが)自分が育つ周りの世界の良さを,鏡のように敏感に映し出す,ということです。子ども等は,自分の親たちの緊張,不安,激しい怒りに敏感です。たとえ,子どもは,親たちが何で緊張したり,不安になったり,激しく怒っているかはわからなくても,大人が表向きには緊張したり,不安になったり,激しく怒っているようには見えない場合でも,すぐに親たちの緊張や不安や激しい怒りに気付いています。ですから,皆さん,子どもを侮ってはいけませんからね。しかし,世の中の変化が速すぎるので,自分たち大人が世の中の変化に「抗して」自分の生きている実感を生きることになっているのかなぁ? 世の中を善くして,みんなが自由で不動になる道の中にある,ささやかな自分の務めを果たすチャンスを願っているのかなぁ? が分からなくなるなりがちです。また,変化の速い世界の中で,私どもは新しい生き方を試しているからですし,試さなくてはならないからでもあります。子ども等が本当の自分を創造できるように育てることって,一番新しい唯一無二の生き方でしょ。一番新しい唯一無二の生き方のゆえに,親たちはその子どもと一心同体に成るために,たくさんの悲しみを引き受けなくてはなりません。その悲しみは,魂の悲しみのゆえに,いままさに増し加わっている時代ですが,親が子どもと一心同体に成るために,悲しみをたくさん引き受けなくてはならないのは,魂を癒そうとする祈りは,この世の中が神をも畏れぬ傲慢さに満ち満ちているが故に,この世では,目覚めていなさいというキリストの教えを日々思い出して,自由に生きることができない,と見るんですから。私も指摘しておきたいのは,母子2人が,キリスト・イエスのおかげで,聖書の神様のいのちが一巡する結界を作って,共に自由になり不動になる聖書の神様のスピリットがまします場となる主の道にとって,神をも畏れぬ傲慢が,この世の中にはたくさんあるますよ,ということですね。チャンスがあれば私どもが望むのは,聖書の神様のいのちが一巡する結界を生きる主の道に命懸けで従って,聖書の神様のいのちが一巡する結界を共に作り上げる唯一無二の主の道を生きることによってしか,私ども人間が発達成熟する道はありませんから,ということが唯一の啓示だ,ということです。人間が車を運転することを学ぶときには,そうなるかもしれない出来事全てを意識しなくてはなりませんね。車の計器類が示す様々な危険信号や道にある危険信号全てを,自分の耳で聞き,自分の眼で見て,読み取れるようにならなくてはなりません。しかし,人は願うことがありますよ,体得底で生き方を学んだ後には,周りの状況を見ると,最大級の平安を得て,光の微笑みをしていられる、ってね。光の微笑みを微笑む時には,人間は見通しを楽しんでいるんですが,道具の調子がおかしくても,道にお邪魔が入って来ても,自分の頭で考えて,心豊かに生きていくことができます。
 私ども夫婦がに何のために働き,何のために戦っているのかと言えば,1つの世界を実現するためです。1つの世界とは,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界です。しかし,私ども人間が,この世の中を,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界を傷つけることが1つもない世界にしたいと願うのであるのなら,まず人間がしなくてはならないのは,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界を,2つに分けるウソに侵されて子どもを1つも傷つけることのない世界にすることです。強い立場の者の身勝手,強い立場の者が弱い立場の者に付け込むこと,強い立場の者と弱い立場の者の不公平がこの世からなくすために,まず私ども人間が体得底で自覚しなくてはならないのは,不公平の初めは,子どもと大人が不公平であることです。人間の子ども時代は長いので,親たちも教員たちも,時間がたっぷりありますから,子どもの中にある本当の自分を信頼して受け容れて,私ども人類が体得底で体験的に分かっている一番善い心の習慣の中で,本当の自分を体得して,心から優しい人間になれるように手助けしてもらえます。
 
 
 
 
 子どもが,下に立って under stand くれる大人に恵まれると,本当の自分をギフトとして貰えます。そのことが今日出てきましたね。
 しかしながら,上に立つ大人がいますと,逆様のことが生じてしまいます。それは明日。
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#気高い神様に従う生き方 と #心の友

2019-12-17 05:41:00 | エリクソンの発達臨床心理
 






#キリストの約束 #心の病 #打ち込まれた価値が省みられない印 #圧倒的に氏より育ち
 #エリクソンの叡智 #発達トラウマ障害DTD #回復の確実な手立て #復活 #陽気で楽しい=#自由=#心から優しい エース得点(ACEscore)が4点以上   ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。 
 
 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
 
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
 
 p.340の 第2パラグラフから。
 
 今朝は,p.341の第6パラグラフ,(4)から。
 
 
 
 
  別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。
 
 
 
 Ⅱ 人間を上下2つに分けるウソ
 
 
 
 人間の毎日礼拝から心からの歓びをやり取りする,聖書の神様のまします場を分かち合うために,心の刻んでおかなくてはならないのは,聖書の神様のいのちが一巡しないと,相手をコントロールすることになる,ということなんです。
 
 動物の習慣は,そのほとんどがその動物の種類に特有の習慣ですが,何時でも強調しなくてはならないのは,人間は,「まがい物の人類」,すなわち,種族や一族郎党などの中で,進展してきたことです(その進展がどのようなものでも,どんな理由でその仲間に入ったかは,ともかく)。その種族や一族郎党は,まるで自分たちだけが神様の意思で創造のはじめに特別に創造されたかのように,振舞うんです。この「まがい物の人類」の振舞いは,自分たちが創造主の御心で,初めから特別に創造されたかのようですし,自分たちがこの世に存在することや,自分たち一族郎党の掟、それに,自分たちの身勝手な神権政治とイメージを、天地創造よりも大切にするかのようです。このように,ひとりびとりの人間は,「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になってしまいます。この「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になることが,人間が聖書の神様と一心同体に成ることそのものと,勘違いされてしまいますし,その勘違いが,他の「まがい物の人類」と対抗しながら,聖書の神様と人さまとを侮ることによって増長してしまいます。その侮りは,自分たちは特別だという壁を作り出しますし,唯一の「聖書の神様の創造」に預かる人間らしい企てに対して,敵意を持ちます。しかしながら,人が正しいと思っていることとは正反対に,生まれたばかりの新しい人は,どのような「まがい者の人類」にもピッタリと一体になれますから,長い子ども時代に間に,「まがい者の人類」の一味になってしまいます。このまがい者の一味になる,ということが,「毎日礼拝で家族の一員となる」個体発生の中にある厳然とした事実です。
 
 まがい者の一味になる「人類を2つに分けるウソ」についてお話しすることは,聖書の神様のいのちが一巡するのとは正反対です。しかし,いまここで,私が真正面から相対しているのは,ジグムント・フロイトの本能理論の中にある2番目のウソです。魂が自由になるいのちの中に「本能」という名詞が現れる時はいつでも,本能の派生語の「本能的」,あるいは,「本能に似た」という2つの形容詞のどっちかな? と問いを持つとお役に立ちますよ。つまり,強調するのが,行動の1つの「本能的なパターン」にあるのか? それとも,多かれ少なかれ冷淡で,ピッタリとくっ付くことから逸れてしまった1つの「本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度」なのか? どっちなのか? と問うことが大切です。心を自由にする術は,本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度を考えるのが,普通です。本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度は,やりすぎになっているのに,「ピッタリとくっついて一心同体に成る」という上等な意味で,本能的性質には欠けています(ハートマン,1938)。自由で膨大な本能みたいなエネルギーがある進化論的な根拠は,もちろん、エルンスト・マイヤーの用語では,人間が「様々な環境に適応できる万能選手」であるという事実にあります。すなわち,人間は,様々に人を駆り立てるありふれた気持ちを,様々な学びや,様々な人との出会いに,活用して,長い子ども時代の間に,互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になることを,それぞれ強め,広げるように,創造されているんです。互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になること全ては,私(あるいは,いまここにいる私であるキリスト)が示そうとしていることですが,その人ならではの毎日礼拝が一番気高く確実に育ててくれます。
 
 私が「最高に気高く」と申し上げるのは,人間の「行動の禁止事項」と「心の中の禁止事項」は、やりすぎになりがちで、2人が一心同体になること反するからです。それは,人間が本気で押さえつけようとする,自分を駆り立てる気持ちがやりすぎになるのと同じです。心から自由になる時には,ですから,私ども夫婦は,「押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましょう」と,お話しするようにしています。押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましたら,本物の毎日礼拝が「人品を発達創造させる気高い生き方」というギフトを下さいます。「人品を発達創造させる気高い生き方」にあっては,無理強いや我慢のし過ぎはあり得ませんし,社会全体がウソとゴマカシで溢れることも,罪を犯した人たちに厳罰を声高に叫ぶことも,あり得ませんでしょ。もしそうならば,ウソのない最も真面な毎日礼拝がお役に立つ,3つの肝心要の歓びが少なくともあります。
 
(1)ウソのない毎日礼拝は,内的促しされた関わりを,互いに大切にし合う唯一無二のパターンにシッカリとむすびつけます。互いに大切にし合う唯一無二のパターンのおかげで恵まれるものは,危険なほど複雑な厄介ごとを,なるほど本物だと腑に落ちる,一心同体体験です。お母さんと赤ちゃんは,これまで申し上げてきましたように,最初の毎日礼拝で一心同体になりますから,一心同体になれた赤ちゃんは,自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズを,星座みたいに一纏めにすることができます。自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズの中には,口のニーズ,五感のニーズ,触れ合うニーズ(フロイトの自分と人を大切にする理論では「ア~ンと開かれた口」として,割り当てます)がありますし,本来はバラバラな体験を,お母さんに心から大切に世話してもらうことで,ピッタリと一纏まりにしてもらいたいというニーズがあります。出産後の母親も,自分が子どものニーズを1枚の布にするように一纏まりにするには,ニーズがたくさんあります。なぜならば,「特別に大切な自分の赤ちゃんという仲間」の母親に,「特別に大切にする生き方で」ならなければならないからです。それは,そのお母さんが,生まれながらにお母さんになる素質が豊かに与えられていても,その子の唯一無二のお母さんになることをいくら,愛着パターンからして歓んでいようとも,ニーズがたくさんあることには,変わりません。「特別に大切な自分の赤ちゃんという仲間」の母親に,「特別に大切にする生き方」で,お母さんたちは,それは御免だと思い煩う(心配で避けるのは,なんとなく怖いと感じることもあれば,上から目線でそうなる場合が多いんです)こともなく,なれます。それは御免だと思い煩うのは,「よそ者」の種類,「よそ者」の生き方でして,(意識してないことも多いのですが)お母さんが嫌いで,バカにした,憎んで,あるいは,怖がる生き方なんです。それは,お母さんが,聖書の神様が死んでいること,悪魔が支配することを嫌ったり,穢れや悪い態度を嫌ったりするのと,同じです。

(2)お母さんが「本当の自分を生きて,生きている実感を体感する」ことが聖書の神様から徹頭徹尾許されて,同時に,仲間の人生の習慣のためにも役立つ中で,毎日礼拝は,お母さんが傲慢にならないように,守り神になってくれます。
 
(3)赤ちゃんの様々なニーズに即座にこたえる中で,互いに大切にすることができれば,毎日礼拝も,また,大人と子どもが,世代を超えて,いつも何度でも,ピッタリ一心同体にお互いになれる土台作りになります。と申しますのも,このお母さんが繰り返し立ち返る,気高い人生の習慣は,自分を手塩にかけて大事にしてくれた自分のお母さんと一心同体に成る中にあるからですし,お母さんのお母さんらしさが繰り返し立ち返る,気高い人生の習慣は,自分の赤ちゃんに心響く関わりが増すお陰で,晴れ晴れとした真心から湧きだす心から優しい態度となるからです。聖書の神様のいのちが一巡する母子関係,という天国の中では,その天国の赤ちゃんは,晴れ晴れとした真心から湧きだす心から優しい態度を体得する自分が(この自分は,聖書の神様のいのちと繋がった自分を心から大切にする自分 と呼べます)が育ちますが,この自分は,晴れ晴れとした真心の塊から湧き出す心から一番優しい(不思議なことに,ときどき意地悪です)「聖書の神様」が「とてもいいぞ」といつでも何度でも認めてくれることの中に体得底で根付いているんです。

(4)毎日礼拝がプレゼントしてくれるのは,自分の魂が聖書の神様に従う根っこです。人類ひとりびとりの魂が皆対等に成るために,魂が自由になる中で,自分の魂が聖書の神様に従う根っこのおかげで,私ども人類は,泰然自若な「不動の自分」ができます。
 
 

 
 
 加藤周一さんは,私が最も敬愛する(日本人の心を最も明晰に解き明かした)哲学的心理学者です。
 加藤周一さんは,私の魂の恩師,西村秀夫先生の第一高等学校時代の同級生で,一校テニス部で仲間だったそうです。加藤周一さんの岩波新書『羊の歌』に,西村秀夫先生の件が出てきます。

 西村秀夫先生も,加藤周一さんも,聖書の神様に従う気高い一生を全うしました。加藤周一さんは,死ぬ直前にカトリックの洗礼を受けたそうですが,それ以前から,まるでユングみたいに,人類を超えた聖書の神様の存在を「知っていた」ことは,間違いありません。「知っていた」と言っても,それは知的に知っていたのではありません。学得底ではない。体験的に体得していたに違いありません。ですから,加藤周一さんは,聖書の神様に従う生き方を,洗礼を受ける前から,そのずっと前から,生きていたのです。
 ですから,何十人もいたはずのクラスメイトやテニス仲間の中で,実際には必ずしも “仲良し”ではなかった西村秀夫先生のことを『羊の歌』で,わざわざ取り上げたのだと想像できますね。
 聖書の神様に従う生き方をする中で,心の友が自ずからできる好例でしょ。晩年お2人は,手紙のやり取りをしている,と,西村秀夫先生は聖書集会で何度か教えてくれました。
 
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