#聖書の言葉 #単独者の恵み #お祈り
#聖書の言葉 #1人豊か #心の間 #広目にしておいて インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 恥≒「私なんかダメダァ」を癒してくれるのは BIG HO......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
皆さんの十字架
は
皆さんが独りぼっちの時です
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#ニューロフィードバック #スポーツにも役立つ?
#偉大な師 #セムラッド先生 #雨降らし #研ぎ澄まされた感性 #陽気で楽しい間を作り出す実力 現世考: バカ丸出し 「叡智」と「まとめる力」 『不思議を感......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.115の第2パラグラフから。
今朝は,p.116の,第2パラグラフの4行目から。
心響かせることに身を入れる
…
安心して赤ちゃんがお母さんにくっ付いていられることは,同時に,できたという気持ちを育てますが,「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」を創造します。この「安心して自分のことは自分で出来て清々しい心の場」は,生涯を通して,挫けずに生きる秘訣です。安心してくっ付いていられる子ども等は,自分が心地よいと感じるようになります。というのも,安心してお母さんにくっ付いていられる赤ちゃんは,自分(や人)が気分が悪くなるものを見付けて,善くする心の習慣を身に着けているからです。善くする心の習慣って,自分の方から関われば,自分の気持ちや人の反応が変えられると分かっています。安心できるアタッチメントがうまくできた子ども等は,自分で解決できる状況と助けが必要な状況の分別がつくようになります。安心してくっ付いていられる子ども等は,困難に直面しても,自分から困難に向き合っていくことができるようになります。反対に,粗末に育てられた子ども等や,相手にされずに育った子ども等が身に着けることと言ったら,怖がっても,お願いしても,泣いても,親が相手をしてくれない,ということです。何をしたって,何を言ったって,親は打つことを止めてくれませんし,眼も助けもくれません。粗末に育てられたり,親から相手にされずに育った子ども等は,後年試練に出会うと,諦め人生を生きること決まってしまいます。
生きている実感を感じるようになる
ボールビーの同時代の人,小児科で精神分析家のドナルド・ウィニコットこそ,心響かせる関わりを研究する今の研究の父です。ウィニコットの精緻な母子観察は,お母さんが自分の赤ちゃんを抱っこするやり方を観察することから始まりました。ウィニコットが提示したのは,赤ちゃんの身体とお母さんの身体に触れ合うことが,赤ちゃんが生かされている実感を実感する元ですよ,それに伴い,本当の自分と生涯一心同体に成るということの元ですよ,ということです。お母さんが我が子を抱く抱き方が,「その子の身体がその子の魂が生きた場と感じる元」ですよ、ということです。私どもの身体が腑に落ち実感していることが,「生きている実感」の大元です。
ウィニコットが考えたのは,大部分のお母さんは赤ちゃんに上手に心響かれていた,ということでした。「いいお母さん」とウィニコットが呼ぶ母親になるのは,特別な才能などいりません。しかしながら,ことが本当に悪くなるのは,お母さんが赤ちゃんの実感に心響かせることができない場合です。もし,お母さんが赤ちゃんの体感やニーズにピッタリと息を合わせることができない場合,赤ちゃんはお母さんが「この子はこうなってほしい」という思いを忖度し合わせるようになってしまいます。赤ちゃんが実感している体感を軽く見たり,母親自身がしてほしいことに赤ちゃんを合わせようとしたりすると,赤ちゃんは,自分の生き方は「なんかおかしい」と感じるようになってしまいます。お母さんが息を合わせてくれない子ども等は,傷つきやすく,自分の身体から直接貰える実感,すなわち,心からの歓び,生きる目的,生きる指針の3つの大元を実感できません。
ボールビーやウィニコット等のアイデアが紹介されて数年後,世界中でアタッチメント理論のおかげで,大部分の子ども等は,安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがあると分かりました。安心してお母さんにくっ付いていられるアタッチメントがある子ども等が大人になりますと,頼りになり心響く関わりをしてもらえたことから、恐れや心配はご無用になります。押しつぶされるような出来事,すなわち,トラウマに晒されることがなければ,生涯を通して安心できる状態がいつもの生き方になります。
赤ちゃんの時期に安心してお母さんにくっ付いていられますと,心配ご無用の人生を,生涯いつでもどこででも安心して,陽気で楽しい歓びによって生きることに決まっています。
つまり,最初の安心が,一生の安心です。
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Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.341のⅢから。
今朝は,p.343の第2パラグラフ,2行目から。
Ⅲ 子どもの頃の初めと賢いこと
本当の自分を創造することを理解することが困難なのは,初めに行動指針を並べ立てるところから始めなくてはならない事実があるからです。本当の自分を創造することが発達して,その人ならでは,が育つ全体像の一番善い説明は,隠されている本当の自分が発達し,その人ならではが育つと,ひとりひびとりが,キリストを介して聖書の神様と一心同体に成り,その結果,お互いにも一心同体に成ることです。それまで毎日礼拝が無言で「とてもいいぞ」と認めてくれていたことが,本当の自分が育つと,山のような人から,いまここで繰り返し,ハッキリと「とてもいいぞ」と認めて貰えるようになるはずです。子どもと,身体面でも,心理面でも,対人面でも関わる大人の数が増えますからね。つまり,毎日礼拝で,新しく出会った人たちと互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるんです。互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,敵が新しい友になる驚きの中にあります。それから,互いに大切にし合って,相手も自分も不動になり,自由になるのは,いつでも,新しい形が生まれます。
人間の毎日礼拝の第2の形は,一番相応しい言葉は,「judicial,分別の言葉」です。それは,ラテン語の「jus 立法」と「 dicere 話し言葉にする」という言葉の組み合わせだからです。とにかく,judicalという言葉は,正しいことと悪いことを「区別する」方法を含む言葉ですから,自分を創造する時には,確実になります。結局,善悪を峻別する「律法の話し言葉」は,人間の毎日礼拝の大切な見方になります。と申しますのも,毎日礼拝も,善しとされ仲間となる者と,それ以外のよそ者を区別しない毎日礼拝は,1つもないからです。選ばれる者と排除される者があるのは,最後の審判まで続きます。
この第2の形が自分を生み出す源は,第2の聖書の神様のいのちの舞台です。それは,子どもの頃の初めで,魂が生きている実感に従うのを習慣にすることが育つことと,発達が急にすすむこととが,特色です。「ある場所から別の場所に動けること」が,生きている実感を心の習慣にするのに役立つように,移動が許される限界にも出くわすことになります。「分別」が鋭くなるにつれて,「分別」は,「正しく見える」ことと「正しくは見えない」ことを他者の眼で見る忖度を受け容れることにもなります。しかも,「言葉が育つこと」(言葉は,「人間を上下2つに分けるウソ」による繋がりの一番強力な絆であることは明らかです)が,言葉になる世界の中で概念的に纏まるものを強調しますから,言葉にならないことは,名前もなく,奇妙で「悪い」ママになります。こういったこと全てに強烈な意味を与えるものは,フロイトさんが「お尻の穴」と呼んだものです。「お尻の穴」って,腑に落ちない新しい心の習慣にもなります。生きている実感を真っ直ぐに生きると,面目をなくして,恥ずかしいことになるんだと,子どもは気が付きます。真っ赤な顔をして正体がバレますし、一人ぼっちの孤独をひどく感じるのに,自分が悪いのか,自分を裁く親が悪いのか,が分かりません。大人たちは,いのちを削り合う関係の中で,子どもを出汁に使わなきゃ損だと感じますし,子どもは恥をかき,悪いのは自分なのか親なのかに迷う心の習慣をますます酷なものにします。しかし,本物の大人が,人間様を超える聖書の神様の正義を代弁するのは,善悪を分別する毎日礼拝じゃないんですからね。つまり,悪い行いは裁いても,悪いことをした当人を裁く必要などないんじゃないの?
決して忘れまいと思う経験が1つありまして,それは,全ての人類学者(プロでもアマでも)と分かり合えると確信します。つまり,それは,「現場で」「天から間違いなく善しとされる,善い生き方を直感することによって,自分の生業をとっても善いものですよ」と語った古老と初めて出会った,あの驚きです。善い実例をお示ししましょう。それは、北カリフォルニアに住むユーロック・インディアンの人たちから聞いた話です。そのユーロック・インディアンの人たちは,鮭と,増えて移動する(長い間,ハッキリとは分からなかった)鮭の謎の生き方に頼って暮らしてきました。
「昔はね,ユーロック人の食事は,自分が繰り返しユーロックの神様と一心同体に成る本物の礼拝でした。厳格な置き方があり,子どもは決まった食べ方を教えられました。たとえば,食べ物を少しスプーンに乗せること,そのスプーンをゆっくりと口に運ぶこと,食べ物を噛んでいる間はスプーンを下げておくこと,そして特に,その間,自分は豊かになっていると想像すること。食事の間は沈黙でしたが,それは,皆がお金と鮭に三昧になるためです。この食事の毎日礼拝は,おっぱいが恋しい思いを,心から優しい夢を大切にする物差しにしてくれます。このおっぱいが恋しい思いは,(アメリカ・インディアンの中では極めて例外的に)離乳がとても速く行われることから生じていました。後年(訳注:大人になる毎日礼拝を行う)「汗の家」の中で,お金のことに意識を集中させて,女性のことは一顧だにしないという,2つを1つにするキリストを学ぶことになるんです。ユーロック人は,大人になれば,シーズンオフでも、木々にはお金がなり,川には鮭が泳ぐのが見えるようになります。というのも,ユーロックの大人は,内的促しの中で「夢のような」思いは神々が実現してくれるものだ,と信頼しているからです。」
この礼拝の仕方は,幼子の心にも記しを残しましたし,日々のあたりまえの暮らしの中でモデルになる人が居ましたから,聖書の神様のいのちが一巡する道の全てで,(訳注:感動によつて生かされる人生をプレゼントしてくれる)似たような毎日礼拝を礼拝にすることになりました。というのも、子どもを心から大切にすることは,時に適った毎日礼拝の流れ全てに,「2人がピッタリと一心同体に成ること」と「切っても切れない絆」のギフトをプレゼントしようとします。
毎日礼拝の第2の元は,「その子が自由に歓んで関わる意志」を強調することが,毎日礼拝の第一の元と主に違います。赤ちゃんの時期の第1礼拝では,危機回避は,お母さんの責任でしたが,第2礼拝では,子ども自身が「自分に注意する」ように訓練されなくてはなりません。この目的のために,両親や目上の人たちは,その子(その子の顔)と,注意していないとこうなりますよと言う場合に「なるかもそれない」(訳注:失敗したダメな)その子とを比較します。ですから,これこそが,「ダメな一心同体」の大元になりま,この「ダメな一心同体」こそが、「人間を上下2つに分けるウソ」が続く大元になります。,。
ウソ
当たり前のことと思われがちなのがいまのニッポンですが,ウソやゴマカシをやるのは,「ダメな一心同体」の人だからです。
聖書の神様と一心同体に成ったら,間違いはあっても,ウソはばれますから言えません。
#聖書の神様の不思議な力に忠実 #最深欲求と繋がった信頼
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Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。
p.47の,14行目から。
シカゴのシンポジウムで,ルネ・スピッツは,自分とデンバーの仲間たちの最近の観察と考察について報告してくれました。それは赤ちゃんの中で,実感が体得底で最初に生まれる時の,視覚の役割に関する報告でした。視覚のギフトは,他の五感,味覚・聴覚・嗅覚・触覚から得るお知らせを味わう時に最初の役立つことにある,とスピッツは教えてくれました。「視覚は,赤ちゃんが育つ世界,そこはもともと,聖書の神様と共に見る見方が支配的でしたのに,その赤ちゃんが育ちの世界の中に,新しくて,人生を左右する,聖書の神様に背く見方をもたらします。聖書の神様に背く見方のおかげで,その子どもは時間も空間も永遠に続くと思うようになります」。スピッツが言うのには,3か月までの間に,赤ちゃんは見てわかることが育って,一纏まりの景色を覚えていられるまでになる,ということでした。つまり,その赤ちゃんが見た景色が,いまここで,口が満足したことや五感が満足した,生かされている歓びと一体となって,いつまでも続きます,ということでした。つまり,赤ちゃんが目で掴み取った様々な景色は,口周りや五感が満足して,赤ちゃんが実感した生かされている歓びと一体となり,いつまでも続く,という理に適っていますし,聖書の神様の生き方にも適って,不動にされた,その判断には,聖書の神様からの力があるのです。赤ちゃんが実感した生かされている歓びは,おっぱいをもらうこと,抱っこしてもらうこと,肌と肌が触れ合っていること,お尻をサッパリにしてもらうこと,「聖書の神様のいのちが一巡する結界にピッタリとはまり込むこと」からくるんです。このように,様々な場面でお母さんが赤ちゃんよりも下に立ってくれるお陰で,お母さんの顔は,赤ちゃんの探している2つの眼に「光をプレゼントする」ことになります。そのようにして,その母親も,私は私の赤ちゃんの「聖書の神様のいのちが一巡する結界」にピッタリな最初の相手になれた,と腑に落ちることができます。それに,赤ちゃんが2つの眼を見開いておっぱいを飲むと,オッパイをしゃぶりながら,お母さんの顔をじっと見つめるものでしょ。このようにして,赤ちゃんが眼にしたものが,感覚とアタッチメントの場を纏めるために、出す時だけでなく受け容れる時に道しるべになる最大の物差しになります。その最大の物差しは,赤ちゃんが「1人のお母さん」と触れ合うことによってメモリがつけられてるんですから。これがなるほど本当だと信頼するには,視覚によって確かになるものを数えあげるだけで足りるでしょう。時間が同じである物事と,同じ空間が続いていること,ずっと残るのは聖書の神様に心から歓んで従うことですし,共に居ることが溢れるほどの恵みであると心底分かること,身近に見える姿と背後にある違いを超えた一体感,パートナーが不動にされ自由にされる結界の中で,ピッタリの人が,パートナーの息に自分の息を合わせると,一心同体に成れることにこの世を超えて感動すること,これら全てが一体になるのは,聖書の神様みたいに「とっても善いよ」と認める人が,願った時にはいつでも共に居てくれることで、初めて実現します。これは,のちのち,単なる事実を包み込む「なるほど本当だね」と実感する実感の大元になります。まもなく,聴く力が不可欠で役立つ力になるのは,自然の成り行きです。それは,眼には見え何世界のことを教えてくれるからです。
不思議なところの更なる更なる続きです。
聴く力が見る力以上に重要です。
本当のことは目には見えませんから。
超越,この世を超えて感動するのは,聴く力から来ます。
#生きている歓び は #歓んで受け身になってくれる人 がいてくれるから #歓んで共に居ること #藤藪庸一牧師
#陽気で楽しい間の実力 #本音の動機 #意識していない方が普通 聖書の言葉 : 時 καιρός 言葉の力 あるいは、「なんでうちの子は育たないのか?」......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
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Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』のp168。
p.170のはじめから。備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。
忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません。
…
時間の見通しに志がない
思春期が遅く来たり,長引いたりする極端なケースに中に,時間の実験の中で混乱しきった極端に事例が出ます。そういった事例は,やや軽傷の場合でも,子どもの頃から後は,辛い毎日だ,という人もいます。その辛い毎日とは,「●●しなきゃ」と強く思うのに,人生には限りがあると思わなくなることです。その若者は,とても若いのに,赤ちゃんみたいで,しかも,若返りどころか,老人です。私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が,私どもの患者さんに共通しています。それは,私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が若者にはありがちなのは,このように、私は一心同体に成り損ねて,恵み深いキリストが魂の中で育たず,心がバラバラですよと公言する事が,浮世離れした話と思われがちだからです。ところが,コチコチの敵意の塊とは,何をやっても無駄ですよ,と信じて疑わない不信の塊ですし,変化をひどく恐れている恐怖の塊です。この世は変わらないと信じ込んでいるのに変化をひどく恐れている心の矛盾が表に出ると,何をしても動きが遅い,ということになります。この、何をやっても動きが遅いと,その患者さんは,まるで糖蜜の中にいるみたいに,動けなくなります。敵意の塊の人って,床についても,なかなか眠れませんし,同じように,起きても,目もパッチリに目覚めることもできません。敵意の塊の人って,セラピーの約束を守って時間通りに来ることもできなければ,セラピーを時間通りに退室することもできません。敵意の塊の人って,「分かりません」、「もうダメだ」、「もうやめた」が,軽いうつ病を示す常套句になりますし,エドワード・バイブリングがエゴには一種の絶望する願いがあると言った,その表現である「死にたい」って零すこともよくありますね。
人生は関わりの中で終末に向かって創造されているし,そこに発達の目的がありますし,試練が仕込まれた計画の後に「息を最後に吐く日」があることを,腑に落ちて受け止める,ということを少しも快く思いませんが,人生には終わりと目的がある、ってことを腑に落ちて受け止めることこそが,試練がある新たな創造を始めることには不可欠で唯一の条件なのにね。
敵意の塊の人って,絶望したいみたい。
ですから,敵意の塊の人は,発達も創造もできません。せいぜい人から言われたことをやるだけの指示待ち族。