#聖書の言葉 #単独者の恵み #優しい
#聖書の言葉 #1人豊か #晴れ晴れとした人生の秘訣 聖書の言葉: ὸδὁς 生き方,生活の仕方 言葉でできている≪私≫ ≪本当の自分≫は、知るよりも感じるも......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
真摯に
聖書の神様の声を聴けば
聖書の神様からの呼びかけ(使命)
が聞こえます
#聖書の言葉 #単独者の恵み #優しい
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死んでいるあなたへ
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真摯に
聖書の神様の声を聴けば
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#ニューロフィードバック #深いリラックス #自由
#無意識の復讐 #意識的な復讐 #人間は悪魔以上の悪魔 現世考: 驕れるあべちゃん,久しからず 腹具合が心配 あなたならではを生かしてみたい 自分の感じも......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.117の,ブランクから。
今朝は,p.117の,ブランク後の,第2パラグラフ、8行目から。
自分が体験した両親と生きる
子ども等は誰でも,お母さんにピッタリとくっついて一心同体に成る生物的な本能があります。なのに,子どもには選択肢が1つもないんです。その子等の両親や育ての親が,心から優しくしてくれて,大事にしてくれるのか? それとも,よそよそしくて,鈍感で,相手をしてくれず,粗末にするのか? によって,その子等は,少なくともいくつかのニーズを手に入れようとして,コッソリと打つやり方を育てることになります。
私どもがこのコッソリ打つやり方になりかねない振舞い形を評価し,身に着けて来たのは,2人のアメリカ人科学者,メアリー・アインズワースと、メアリー・メインの業績のおかげです。また,2人の仲間は,何千時間もかけて,お母さんと赤ちゃんの観察を,何年にもわたって,行ったんです。こういった地道な研究に基づいて,エインズワースが作り出したのが,「見慣れたお母さんが居ない場面(ストレンジ・シチュエーション)」と呼ばれる研究法です。それは、赤ちゃんが一時お母さんから離れたときに,赤ちゃんがどのように反応するのかを観る方法です。かつてボールビーが観察したように,安心してお母さんにくっついて一心同体に成った赤ちゃんは,あ母さんが見えないと強い不安に陥りますが,お母さんが戻れば,歓びますし,束の間安心を取り戻すと,落ち着いて遊びに戻ります。
落ち着いて遊ぶ子は,元気という心のエネルギーを,見えないパイプでお母さんから貰ってんです。
#聖書の言葉 #単独者の恵み #優しい
#聖書の言葉 #1人豊か #晴れ晴れとした人生の秘訣 聖書の言葉: ὸδὁς 生き方,生活の仕方 言葉でできている≪私≫ ≪本当の自分≫は、知るよりも感じるも......
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Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.343の第4パラグラフから。
今朝は,p.344の,第2パラグラフ,7行目から。
子どもの頃に善悪の境界線を作り出す日常生活の礼拝と大人の世界の裁判はどちらも,前に示しました日常生活の礼拝の判断基準,すなわち,互いに大切にし合いなさいというキリストの新しい約束(訳注:ヨハネによる福音書第13章34節他)を守ることと,日常生活の礼拝では細部と全体の両方に気を配ることを,溢れるほど満たします。それは,日常生活の礼拝に参加する2人の実感や行いそのものを超越する,キリストを信頼して,互いに大切にし合う関わりがある,ということです。つまり,理解し合った仲間全てを,互いに大切にし合うことです(願わくば,スケープゴートになった自白した犯人も,その仲間になれますように)。それに,私は地球よりも重たい,掛け替えのない私だと実感する心の習慣は,自分を心から自由にするものですから,毎日礼拝が必要不可欠であることは,人間の「本能みたいなもの」と思われます。賢い判断をする原理は,人が本当の自分を創造発達させるのにも不可欠だけではなくて,創造発達が一心同体の仲間を作り出す上でも,必要不可欠です。
しかしながら,賢い判断をする原理が,公の場でも私的な場でも,うまく働いているのか見てみると,賢い判断をするに日常生活の礼拝がうまく働かない場合,倫理が世代から世代へと継承されないことも見て取れます。シックリとこない感じが内心あるのは,怖いからそうしなくっちゃという気持ちが,正しいと感じることに自由に賛成する気持ちに,とってかわります。あるいは,強迫的に中身のない言葉を口にする人が跋扈して、確信をもって日常生活の礼拝にする者を虐めます。賢い判断が台無しになるのは,自己愛過剰のためですから,賢い判断も,「正しいこと」を無慈悲に人に押しつれることになるか,感情的な覗き趣味になるのが落ちです。自己愛過剰はおしなべて,(訳注:厳罰化を主張して)犯罪者を絶望的な孤立に陥れますし,生きる力にならない激しい怒りをますます悪くします。
自己愛過剰の人って,結局,発達トラウマ体験に伴う激しい怒りが未解決だと分かります。
#悪い良心 = #偶像崇拝 = #自分勝手な正しいイメージ偶像に支配されている
#いまここにある約束 #心の習慣 #新しい人 #心から自由の人 インターメッツォ:エリクソンの叡智: イエスの目的 命が危ない! 勘(鍛え抜かれた直感......
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Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から。
p.46のブランクから。
今朝は,p.49の,第2パラグラフの27行目から。
シカゴのシンポジウムで,ルネ・スピッツは,自分とデンバーの仲間たちの最近の観察と考察について報告してくれました。それは赤ちゃんの中で,実感が体得底で最初に生まれる時の,視覚の役割に関する報告でした。視覚のギフトは,他の五感,味覚・聴覚・嗅覚・触覚から得るお知らせを味わう時に最初の役立つことにある,とスピッツは教えてくれました。「視覚は,赤ちゃんが育つ世界,そこはもともと,聖書の神様と共に見る見方が支配的でしたのに,その赤ちゃんが育ちの世界の中に,新しくて,人生を左右する,聖書の神様に背く見方をもたらします。聖書の神様に背く見方のおかげで,その子どもは時間も空間も永遠に続くと思うようになります」。スピッツが言うのには,3か月までの間に,赤ちゃんは見てわかることが育って,一纏まりの景色を覚えていられるまでになる,ということでした。つまり,その赤ちゃんが見た景色が,いまここで,口が満足したことや五感が満足した,生かされている歓びと一体となって,いつまでも続きます,ということでした。つまり,赤ちゃんが目で掴み取った様々な景色は,口周りや五感が満足して,赤ちゃんが実感した生かされている歓びと一体となり,いつまでも続く,という理に適っていますし,聖書の神様の生き方にも適って,不動にされた,その判断には,聖書の神様からの力があるのです。赤ちゃんが実感した生かされている歓びは,おっぱいをもらうこと,抱っこしてもらうこと,肌と肌が触れ合っていること,お尻をサッパリにしてもらうこと,「聖書の神様のいのちが一巡する結界にピッタリとはまり込むこと」からくるんです。このように,様々な場面でお母さんが赤ちゃんよりも下に立ってくれるお陰で,お母さんの顔は,赤ちゃんの探している2つの眼に「光をプレゼントする」ことになります。そのようにして,その母親も,私は私の赤ちゃんの「聖書の神様のいのちが一巡する結界」にピッタリな最初の相手になれた,と腑に落ちることができます。それに,赤ちゃんが2つの眼を見開いておっぱいを飲むと,オッパイをしゃぶりながら,お母さんの顔をじっと見つめるものでしょ。このようにして,赤ちゃんが眼にしたものが,感覚とアタッチメントの場を纏めるために、出す時だけでなく受け容れる時に道しるべになる最大の物差しになります。その最大の物差しは,赤ちゃんが「1人のお母さん」と触れ合うことによってメモリがつけられているんですから。これがなるほど本当だと信頼するには,視覚によって確かになるものを数えあげるだけで足りるでしょう。時間が同じである物事と,同じ空間が続いていること,ずっと残るのは聖書の神様に心から歓んで従うことですし,共に居ることが溢れるほどの恵みであると心底分かること,身近に見える姿と背後にある違いを超えた一体感,パートナーが不動にされ自由にされる結界の中で,ピッタリの人が,パートナーの息に自分の息を合わせると,一心同体に成れることにこの世を超えて感動すること,これら全てが一体になるのは,聖書の神様みたいに「とっても善いよ」と認める人が,願った時にはいつでも共に居てくれることで、初めて実現します。これは,のちのち,単なる事実を包み込む「なるほど本当だね」と実感する実感の大元になります。まもなく,聴く力が不可欠で役立つ力になるのは,自然の成り行きです。それは,眼には見えいな世界のことを教えてくれるからですし,聴く力は,「曲がり角の先」からあの嬉しい声が聴こえてきますし,馴染んだお母さんを確かめることができますよ,という希望を強めてくれます。赤ちゃんの時期に,お母さんの姿が見えるし,お母さんのの声が聴こえるという,母親を二重に徹底的に心いっぱいに味わうことが,いつも大事だと分かるのは,お母さんが赤ちゃんを唯一の名となる呼び名で声を出して何度でも「繰り返し善しと認める」ことになるのと同時に,名付けたお母さんが,赤ちゃんを認めてくれる人として赤ちゃんから繰り返し善しと認められることを心から歓ぶからです。(訳注:エリクソンの奥様)ジョアン・エリクソンが言うように,「人生は,眼差しによって,繰り返し,始まります。…触れ合いが心から大切にすることになるのも,バラバラでいると激しい怒りになるのも,眼差しと関係します。大人になっても,このように眼差しが物を言うことに変わりはありません。と申しますのも,生涯にわたって,私ども人間が仲間内で他者といろいろとやり取りするのは,眼差しに温もりがあるからでしょ。お母さんから見られることに始まる眼差しは,恵みですし,同時に,呪いです」。
知ることと実感が一体で育つこの場では,眼差しの力は,申し上げて来た2つの意味でハッキリと現れます。つまり,事実だと分かったことを完熟した五感を用いて,あらかじめ善く理解すること,しかし,そればかりではなくて,十分に繰り返してもらったと分かったことは,もう一度手に入ると信頼することです。
それにしても,こういうこと全ての遊びに何の関係があるんでしょうか? ヘインツ・ワーナー・レクチャ―で,ブルーナーが述べたことは「赤ちゃんは,感覚器官を通じて,感覚器官を使って,感覚器官を使って動かす力をはるかに超えた心の習慣を生み出します」ということでした。その結果「最初に関わってくれた人と一緒にならなくても,赤ちゃんは長い間その人を良く見ていますから,その場になれば,おのずと,最初に関わってくれた人の関わり方に身を入れることになります」って。眼差しが一番大切なことをスピッツが強烈に主張してくれたおかげで、私は,ブルーナーが魂に火を点ける苦心の実験を描いてみましょう。すなわち,生後半年の赤ちゃんは,おっぱいを吸う力と結びついていますから,おっぱいを吸う力は,聖書の神様のいのちが一巡する場になるか否かで,寝ぼけた絵か,ありがとうと言いたくなる絵を,母親の顔に書くことになります。ブルーナーは「人間は赤ちゃんの時から,善い相手を見ると,見ることに集中して,ハッキリと見えますから,おっぱいを吸うのを忘れるほどですから,新生児が心底求めるニーズは,パンや慰めを求めるニーズだけじゃないことが分かります」と話を纏めます。
自明の理として申し上げるのは,赤ちゃんが五感,特に眼差しを使ってめぐり探している,ということですし,繰り返し見失って繰り返し見つけた相手を繰り返し大切に思うことが,「2人が夢中になる」最初の大切な関わりになる,ということです(この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,いないいないばあっ みたいな遊びになります)。この「2人が夢中になる」最初の大切な関わりは,笑顔の王冠で輝いています。それは,生後12週で,お母さんの顔という「天国の印が顕現する場」に立たされてハッとするからこその,輝く笑顔の王冠です。もちろん,赤ちゃんの輝く笑顔の王冠そのものが,お母さんが子どもに気付き,心から大切にしたいと思う(recognitionのあらゆる意味で)点で,唯一無二の誘い水になります。自由な大人になった者が子どもに気付き,心から大切にしたいと思うのは,新生した者だけがもたらしうる思いです。なぜならば,輝く笑顔の子は,その笑顔に接した大人が,自分が聖書の神様のいのちが一巡する中にあり,新生した、と実感することに役立つ力がありますから。
そして,いつものようにピアジェさんの登場です。(訳注:ピアジェさんの代表作)『子どもの中に実感を育てること』の冒頭で,「ずっと残るものからできている世界は,…死と再生を繰り返すことなく,因果の法則に従う時空です。ですからね,世界は,確かに外にある,唯一の世界になりますし,その外なる世界の中で,あらゆる言葉がある中で,人は自分をのことを固有名詞で呼びます」とピアジェさんは言います。是非心に刻んでおいてほしいことは,理性の塊であるピアジェさんの議論の真ん中に,「死」と「再生」という実存的な言葉が不意に見つかることです。私ども夫婦は,これを最大限生かしましょうね。と申しますのも,赤ちゃんのことで描き出していることは,人間が自分のスピリットをイキイキと生かしたいと願うのは人間の最深欲求からだ,と私は信じているからなんです。あるいは,もっと創造的に申し上げれば、私どもが見て「手で触れる」ようになった事実に意味をもたらす実感にとって,キリストの「死」と「再生」は,根っこにあることです。心にどんなイメージを抱くかという心の習慣にとっても、キリストの「死」と「再生」が根っこにあります。このキリストの「死」と「再生」が根っことなった心の習慣のおかげで,人間は,全ての創造発達の舞台,すなわち,生涯にわたって,聖書の神様の心から優しい思し召し通りに創造発達する中で,シャローム心からの平和を,繰り返し確実に実感することができます。つまり,爪弾きにされ,相手にもされずにいるよりも,生かされている実感が胸いっぱいに満たされる中で生きたいのです。自分から人に関われず、助けてももらえないのでなく,自分から人を大切にする関わりができて,それを遂げることができます。自分だけ特別に見守られているのであって,感覚過敏になったり,無感覚になったりするんじゃない。中でも,試練を乗り越えて,生かされている実感が漲って生きるんであって,見て見ぬふりをされて,見捨てられるんじゃぁありません。これら全ての兆しは,あの生かされている実感が漲る意識の,朧げな始まりです。あの生かされている実感が漲る意識は,どの言葉でも,《私》と呼ぶようになります。
何気ない日常が記されているように見えますでしょ。
人が自分のことを「私」と呼ぶなんて…
しかしながら,私はこの「私」を敢えて、《私》と翻訳したのは,エリクソンの意をなるだけ日本語にしたかったからなんですよ。
この《私》は,聖書の神様のお名前「私が生きているって素晴らしい」と繋がっている《私》なんだということです。聖書の神様の名前「ありてあるもの」は,「生きているって素晴らしい」と同義だということは忘れないほうが善いです。
#いまここ で #生きている実感を肯定される人生 #生きている実感が漲る人生
#遊び は #心の習慣の源 #人生の習慣 #約束を信頼しなおす 気持ちを言わない虐待された娘たち 「成功」の絶頂でこそ、落ち込む 本物の創造性 相手の気持......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと危機』
p.170のブランクから。
今朝は,p.172の,第2パラグラフ,8行目から。
備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。
忘れてはならないのは,気持ちがピッタリと分かり合って腑に落ちることの反対は、人に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません。
…
いつも生真面目
一心同体に成り損ねることが深いと,務めを果たす者の心の習慣が非常におかしなことになります。それは,求められたことやそれとなく促されたことに集中できない形になるか,例えば本の読みすぎみたいな,つまらないことに破滅的に囚われます。このような患者さんが,治療中に,いったんは見失った,務めを果たす者の心の習慣を心の中に取り戻す活動を見付けることがありますが,それ自体がとても大切なことなんです。ここで心に刻んでおいたほうが善いのは,思春期や青年期の前の発達の舞台,すなわち,小学校の時期です。小学校の時期は,自分の文化社会の読み書きそろばんを分かち合うことが必須科目として教えられますし、務めを果たす者の心の習慣と務めを分かち合う心の習慣にピッタリな時期と聖書の神様のいのちを分かち合い全うする,お務めを与えられます。これまで見てきましたように,小学生のころエディプス期(訳注:だいたい3歳~6歳)の後に来ることが,とても深い意味がありますね。すなわち,男と女としてでも,馴染みとしてでもなく,お務めを果たす者として,聖書の神様を信頼する信頼を代々伝えた者として,両親ともう一度一心同体に成ることをやり直すことを,仲間たちが許す,仲間になる掟を身に着ける点で,単に陽気で楽しい歓びと言うのではない,実感のある段階を全うする,ということです。このようにして,親と共に育つ,親みたいになる可能性が少なくとも1つ,しかも,「自分ならではの」親みたいになる可能性を育てることになります。大元になる判断を実際に自分で判断してみるという手にとって分かる目標を,心豊かになる学びの場((訳注:アメリカ・インディアンの)「汗をかく家」,お御堂,釣り場,作業場,調理場,学校)では,同じくらいの年齢の仲間と分かち合うことになります。そういった場所は,場所的に家からも,母親からも,幼い時の記憶からも,切り離された場です。しかしながら,この心豊かな大人になる学びの場は,男女をどう扱うかという点では,大きな違いがあります。お務めの目当ては,幼な子が本能で望むものことを押さえつけることを強めたり,利用したりするだけではないんです。私が歓ぶ歓びを強めることも,お務めの目当てになるんです。というのも,お務めの目当ては,生きている実感をみんなで共有する中で、具体的な手立てや物を用いて,唯一無二の共に心豊かになる関わりをもたらすからなんです。受け身で体験したことを能動的に経験しなおしたい私は,生きている実感をみんなで共有する中で、具体的な手立てや物を用いて,唯一無二の共に心豊かになる関わりをすもたらすことで,日の目を見る新たな場を手に入れます。それは,多くの点で,幼いころの空想や遊びで,受け身で体験したことを能動的に経験しなおすことに勝ります。と申しますのも,自分から人に関わりたいし,働きも仕事もしたいと願う内的促しが,仲間の実感を分かち合う中で,やりたいと願う願いとチャンスの息が,仲間とピッタリと合うからです。
しかしながら,作品を残すお務めを果たす者と一心同体に成ることが始まる前に,エディプス期があるために,苦しんでいる若者達の中にある,作品を残すお務めにピッタリと相応しい心の習慣は,エディプス期のぶつかり合いと兄弟間の敵に備えて武装し,逆戻りすることに相場が決まっています。一心同体に成り損ねると,集中できないだけではなくて,競争相手を忌み嫌うことに加えて,競争相手に意識過剰になります。こういった苦しみを抱く者たちは,知的で,有能で,事務仕事や学問やスポーツも卒なくこなしますが,いまここで,作品を残すお務め,魂の鍛錬,心からの楽しみの分かち合いができません。また,家族や人のために夢中になる,三昧になる,という,魂を繋ぐ最も大切な関わりもなくしていますし,悪だくみといつも何となく感じる不安にメゲナイ,聖書の神様のいのちの一番の印もなくします。その代わり,赤ちゃんの頃の数々の目当てと空想が,大人になってセックスができる身体と,憎悪に満ちた攻撃的な力をから生じる強烈なエネルギーを持ちます。1人の親が目当てになり、もう1人の親は,繰り返し,重しになります。しかし,このことが繰り返し甦らせるものは,エディプス期(訳注:3歳~6歳ころ)の諍いは,セックスをする相手を争う争いではないし,セックスをする相手を争う争いのはずなんてありえません。エディプス期の諍いは,一番最初の源に向き直ることなんですよ。つまり,エディプス期の諍いは,赤ちゃんの時の,心が驚き感嘆するヌミノースが溢れ出す予定の自分を取り戻そうとする試みです。また,子どもの頃に一心同体に成り損ねてぐらついている自分を,もう一度作り直そうとする試みでもあります。別の言い方をすれば,(訳注:聖書の神様の創造発達計画の中では,赤ちゃんの時には,心が驚き感嘆するヌミノースが溢れ出すはずの自分に)生まれ変わりたいんですし,生きている実感と互いに大切にし合う関わり合いを始めに創造した,唯一の聖書の神様の心からの優しさを体得したいんです。それに,創造の初めに完全に戻る,ということなんですよ。創造の初めに完全に戻るとは,共に触れ合い,自分から相手を大切にする関わりを始めて,一心同体に成る神の国を育てることです。
大学で行き詰ったと思った若い患者さんは,治療の最初の段階で、自分は見る目がないと思ったが,2人とも大学教授の父親とセラピストに,自分をなくすほど過剰に一体になりました。その若者は,復活した「癒しのキリスト」に導かれて,自分はもともと絵を描く才能に恵まれていたんだという事実に気付けました。これは,自分を失うほどに過剰に一体になることを治療して,自分を豊かにすることで初めて守られる気付きです。絵を描くことだけが,本当の自分と一心同体に成り,腑に落ちる心の習慣を徐々に取り戻すのに,欠かせない唯一の強力な武器でした…
目先のことに囚われずに,腑に落ちることを大切にしたいものですね。
腑に落ちる心の習慣こそ,晴れ晴れ人生の秘訣です。