「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
p.75 から。
選民意識 と 毎日礼拝
第1部の結論においてお示しましたのは,人類を上下2つに分けるウソの条件そのものでしたでしょう。人類を上下2つに分けるウソの条件そのものとは,人間が陽気で楽しくしていることが,場合によっては,人が自由になることもあれば,人を縛ることにもなる,ということですし,人と人の関わりが増すことにもなれば,ウソとゴマカシが増すことにもなります,気高い暮らしにもなれば,ジェノサイドにもなります。一番古くからある遺産,すなわち,自分を憎むと人を憎むことになる運命的な関係と結びついて,人類を上下2つに分けるウソは,現代,すなわち,核の時代に至るまで,人類の歴史を支配してきました。しかし,私が光を当てたいのは,人類全てが,あるいは,その一部が,人類を上下2つに分けるウソ「である」,と言っているんじゃないことなんです。私が申し上げたいのは,人間には,人類を上下2つに分けるウソに嵌る傾向が埋め込まれているということですし,その消し去りがたい人類を上下2つに分けるウソに嵌る傾向は,一定の条件を満たせば,あたかも勝ち組の人種みたいな顔をして振舞う,ということなんですよ。
でもね,「ウソ」って何でしょうか? 「ウソ」は,腹立たしい言葉で,その場合,でっち上げや悪意に満ちたダマシを示します。自然主義的な意味が,もっともらしく,この世にない,似て非なることに割り振られると,それだけ説明的でしょう。次に,人間のフリの中で私どもが考えなくてはならないのは,あらゆる種類のイメージと行為だということであり,それは,純粋な役割行動と創造的演技から 意図的で政治的な騙しまでいろいろある訳です。人間の行動がバタバタするのは,成長するにつれて,無意識の働きに合わせる術を身につけなくてはなりませんし,「仲間」が抱くイメージや話し言葉との間に生じる葛藤にも,合わせる術を身につけなくてはならないからです。「仲間」が抱くイメージや話し言葉が決まってくるのは,その民族が,地理や歴史に占める位置付けと,文化や工業技術を発展させている舞台によります。と申しますのも,アーネスト・メイヤーによれば,私ども人間は,「(様々な環境に適応できる)万能動物」なのですから,様々な環境,様々な文化社会の中で成長できる力をもって,生まれてきているわけです。私どもの「人種をバラバラに分ける」が,技能の面でも文化の面でもそれなりの環境に適応していますが,生産と消費の点で特別な意味がありますし,運命と生き方の点でも,特別な意味がありますが,「人種をバラバラに分ける」ことによって,その支配的な種(新しい人 新しい人の最初)がまるで宇宙の中心にいる,宇宙の中にある唯一の人間であるかのように振舞うことが許されることになります。もちろん,歴史は,(いろんな帝国,いろんな宗教の中で)こんなバラバラな時代と,代わりばんこに 主旋律になりますが、同時に,このバラバラな時代を1つにもしてきましたし,だからこそ,一層包括的な人々との一体感を創造してきたわけです。一層包括的な人々との一体感は,一種の未来予想図になるんです。
次に,「人類を上下2つに分けるウソ」とは,自分の「仲間」と別の「仲間」の間に,やり取りがない感じです。このやり取りがない感じこそが,人間全体の中に主たる差別を作り出すことと離れがたく結びついています。あるいは,ほんの些細な差別でも,大きな差別を産み出すことになります。人間の「忖度」は,独特の選民意識,すなわち,種族,民族,信条,階級などの特別な選民意識は,市民権,勇気,仕事の出来栄えで最高のものにも貢献できますし,以前は敵対した新しい真実(「ローマ市民」や「キリスト者の慈愛」)と一心同体になります。たほう,新しい「自分らの」よそ者の敵の姿で,選民意識は変幻自在に現れます。たとえば,選民意識は,死ぬほど大嫌い,怖くて近寄らない,よそ者扱い,ということになります。このような大きな差別の元凶たる選民意識がありますと,人は実際の野獣以上の獣になります。あるいは,もっと穏やかな場合には,お互いに「自分の方が正しい」,あるいは,「お前の方が間違いだ」と,決められた手続きの元で,お互いにやり合うことになります。一番大事なのは,「人類を上下2つに分けるウソ」の滓によって,歴史的状況がおよそあらゆる形で急に激変する場合がある,…ということです。たほう,ど真ん中に,これまで申し上げてきた毎日礼拝は,自分たちの聖なる仲間ならではで,しかも,不可欠な強いスピリットが必要です。
強いスピリットこそ,キリストです。