ルターは「地獄の沙汰も金次第」のあり様を捨て置けなかったのです。
Young Man Luther 『青年ルター』p.226の9行目途中から。
聖人の中には、自分一人が救われる以上に救いの貯金を積み上げた人もありました。カトリック教会は、その救いに与る上で、免罪符を配ることを任されましたのも当然でした。カトリック教会の体制の中には、手に入れられるものがゴマンとありました。ところが、カトリック教会が救いを独占している、その外側には、1つの救いも落ちていませんでした。だんだんと、このカトリックが独占している大政翼賛会体制の中で取引することが、従業員たちを都合し合ったり、沢山の取引相手と商売したりして、「この世は全て金次第」という考えに支配されるようになりました。一番みじめな、カネが全てということの現れは、たくさんの貧しい人たちが、賽銭箱にたくさん小銭をチャリーンと入れることでした。お賽銭は、最初は、礼拝に加わるオマケだったのに、次第に、カネそのものが直性的な不思議な力を帯びるようになってしまったのでした。それは、カトリック教会の上下関係を通して、天の会計簿に影響力を持つに至ったのでした。
このようにして、最初は、非常に個人的な悦びの源、少人数の間でのその分かち合い、助け合う関係が、堕落していくんですね。お金も最初は実費程度だったでしょうね。しかし、次第にそれがなくてはならないものになんですね。
マックス・ウェーバーが、プロリンの中で、資本主義について、「初めは自分が望んでそうしていたことが、資本主義が軌道に乗ると、次第に、そうしなければならなくなります」ということを言っていたことを思い出します。
本物の礼拝も、一人静かに神様に向かい合う時の圧倒的な悦びを、何人かで分かち合うことから始まりました。しかし、いったんその形が出来上がってしまうと、最初のガイスト、精神が忘れらてしまいます。どんな礼拝でも、どんな制度でも、それを作り上げる時の精神が大事になるのは、精神が形の中で失われやすいことにあんですね。
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