「共に見る」ことのない遠くの現実のイメージ:残るは単純な論理
目には見えないことが信じられないと、モノと数で世の中は回っている、と死に物狂いで信じてしまう。その死に物狂いの姿は、別にペンタゴン・ペーパーの専売特許ではありません。また、精神科...
見る、ということは実に不思議ですね。
「共に見る」のであれば、そこから、良心や意識が生まれてきます。
テレヴィジョン、すなわち、遠くを見る 道具がいろいろできてくると、今までは直接見ることができなかった、≪いまあそこ≫や≪さっきここで≫・≪さっきそこで≫・≪さっきあそこで≫が間接的に見えるようになります。すると、私どもの意識も、変化が生じます。
それでも、それが、その≪ここ≫・≪そこ≫・≪あそこ≫という現場に実際にいた人と「共に見る」のであれば、その「見る」ことにリアリティが生まれやすい。しかし、その現場の人と「共に見る」のではないケースはどうなるのか?
今日のエリクソンは、それを問題にしているのですね。そこに、ウソとゴマカシが入り込み、権力が付け込む隙ができてしまいます。「共に見る」ことがない時に、ウソとゴマカシが入り込むものらしい。「共に見る」ことがない時、私どもの意識は変質してしまうものらしい。
それは、その現場の感覚、その現場の人々が実際に感じている様々な感じが、分からないからです。そうすると、「単純化」が起こる。いろんな感覚と感情が、その現場にあるはずなのに、それが分からない。するとそこにあるのは「単純化」だけではなくなる。
そこに生じるのは、「他人事」感覚、とでも呼んでいいものです。ベトナム戦争を遣り出した、「きわめて頭の良い」人がこれでしたね。でも、テレビでだけベトナム戦争を見ていた、多くの人々も、ベトナム戦争は、「反共のための戦争」だったはずですし、「他人事」だったはずです。その現場では、数知れない人々が、倒れ、傷つき、血を流していても、それを映し出す箱の横で平気でそのままいられます。あの「よきサマリア人」のたとえの、祭司やレビ以上に、心痛めることなく、その現場を通り過ぎることができます。そこに、ウソとゴマカシが入り込み、権力が付け込む隙が生じてしまいます。
私どもは、その「単純化」、「他人事」感覚に陥り、権力に付け込む隙を与えないためにも、たとえ、その現場の人と「共に見る」ことがない場合であっても、想像の翼を広げて、意識して感じる力を広げて、よく見て、よく聞いて、鼻を効かせていたいものですね。
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