自分の人生の主人公であるためには?人生の主人公。さだまさしさんの優しい歌声で聴く「主人公」https://www.youtube.com/watch?v=rSlafdy2Lzgのなかに、「...
今月[1月2016年]の「100分de名著」は、内村鑑三の『代表的日本人』ですね。昨日[1.27,2016]は、その3回目、中江藤樹と日蓮が取り上げられました。日蓮は、ご存じの通り、日蓮宗の開祖、「南無妙法蓮華経」と唱える宗派ですね。中江藤樹の方は、日蓮程知られていないかもしれませんが、江戸時代初期の「村の教師」です。
昨日のブログ教育=パーソナル+パブリックで、「自分を確かにする生き方をプレゼントすることが教育です」と申し上げました。でも、教育はエデュカティオ、引き出すものであって、与えるものではありませんでしたね。プレゼントするという言葉には、「与える」と言うニュアンスもありますから、誤解を生む表現だったかもしれません。しかし、プレゼントには、「眼の前に見える形にする」と言う意味もあることをお忘れなく。私の言うプレゼントは、むしろ、この後者の意味なんですね。
さて、中江藤樹に戻りましょう。中江藤樹は、江戸初期の「村の教師」らしい。その中江藤樹は、教育には、肉体的、知的、霊的な特性に従って、教えることが必要だ、と説いているそうです。ここで課題になるのが、霊的な教育でしょう。「100分de名著」の解説者の若松英輔さんは、「人間は、肉体と心だけではなくて、霊によって超越 ― 神や天ともつながれた存在であり、学校はその三つの触れ合う場所でなくてはならない、と内村か考えました」(テキストのp.70)と言います。
今のニッポンの教育で決定的に欠けているのが、霊的な教育でしょう。内村によれば、それは明治期以降の教育で、欠けていたものだ、という訳ですね。今のニッポンの教育は、身体と知識ばかりで、超越は教えない訳ですね。
私も身体は元気で、知識はそこそこある人に感じるのは、平板な感じです。≪超越≫も感じませんし、≪深み≫も感じません。
では、霊的な教育とはどういうものでしょうか? また、考えをご一緒に深めてまいりましょう。
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