#やる気はどこから?
#聖書の言葉 #単独者の恵み #本物の幸せ山川宗玄さん #そうですよ #その調子 #自分の感性のままでいい 聖書の言葉: ἀνίστημι と れんしゅう......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)
をご参照ください。
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業、です】が施されています)
をご参照ください。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 ,第2章第3節「毎日礼拝」の件が終了。
第4節「毎日礼拝の復権」も、終了。
第Ⅲ部の2章目、「夢を映し出すスクリーン」は,日常生活のいまここにキリストの光があることから、陽気で楽しい歓びの中に新しい見通しが生まれまることを教えてくれました。
今回は,p.139「アインシュタインの謎解き」から。
今朝は,p.143の、第2パラグラフから。
ジェラルド・ホルトンが最近の著作の中で私どもに悟らせようとしているのは,理論を叩き上げた、アルベルト・アインシュタインの業績の中で、見通すことがとても大切だった、ということです。興味深いのは,アインシュタイン少年が、熱烈な積み木好きだったことですし、ジグソーパズルの達人だったことです。しかも、アインシュタイン少年は、多くの子ども達と異なり、話をするようになることには、あまり関心がなかった、ということです。アインシュタイン少年が、お父さんから手軽なコンパスを貰った時に試していたのは,「ワンダー」と呼んだことでした。この遊びは,アインシュタイン少年が繰り返し振り返った実験でした。それがアインシュタイン少年の真実の遊びだったんです。
ホルトンが,大事にしていることで,本当だなぁと思うのは,「実験室」(最高の恵みを得る場でしょう)のアインシュタイン少年は,外国語で赤点を取ったのは、1895年、チューリッヒ工科大学の入学試験に失敗し、学校に戻らざるを得なかったのとピッタリ同じでした。その時初めてアインシュタイン少年が気付いたのは,偉大なペスタロッチが100年前に見つけ、ベスタロッチの人を育てるヴィジョンを受け継いだ心の学校でした。ペスタロッチの教育方針は,ドイツ語のAnschauung 「触って見る」、すなわち、自分も生きるのに人とビッタリ息を合わせて人も生かすモノの見方が、学びの絶対的な基盤としたことでした。その上で、全てはアインシュタインにとって、違ってきました。そのおかげで,最後は相対性理論にまで導かれることになる、アインシュタイン独自のものの考え方を勇気づけましたし,アインシュタインは心から仲良くなることに新たな価値を見出しました。
想像するものは、アインシュタイン少年にとっては,見通せる感じが強烈にあるモノでした。想像したものは,まるでジグソーパズルを組み合わせる遊びみたいに,自然に、しかも、陽気で楽しく歓びながら、繰り返し作り出し、ああでもないこうでもないと組み合わせるものでした。キーワードは,Bild(イメージ)とSpiel(遊び)です。Bild(イメージ)とSpiel(遊び)に注意していれば,アインシュタインが書いたものの中では,Bild(イメージ)をSpiel(遊ぶ)とアインシュタインが感謝感激感動しているのが分かります。
人生の終着駅に近づくと,アインシュタインが来し方を振り返って気付いたのは、相対性理論に幸運にも思い至ったのは,子どもらだけが不思議に思う時空に関する問いを忘れなかったからだ、ということでした。それで、アインシュタインが1945年に事細かに述べていますね。
魂の視点で見ると,(確実に)2つを1つにする遊びこそ,創造をもたらす想いの欠くべからざる特徴です。しかも,言葉や他の記号で論理を組み立てて,何らかの結びつきが出来る前に,2つを1つにする遊びです。このように述べた要素は、私の場合、見るものであると同時に,力仕事の様でした。型通りの言葉や他の印を,苦労して探さなくてはならないのは,第2の発達の舞台だけです。この第2の舞台では,スピリットに「心を繋げる2人の心を1つにする遊び」こそが,聖書の神様のいのちの結界で,確かに生じますし、日々自由に心を繋げる2人の心を1つにする遊びが生まれます。
これに、アインシュタインは、自伝に書き加えています(67歳の時に書かれたものです)。
この人は、どんな権利があって、この厄介な領域の中の様々な思いを、大事なことを証明しようと努力することもなく、思いがけず、素朴に扱っているんだろうか? と読者の皆さんは問うでしょうね。私の言い訳はこうです。「私ども人間の思考はすべて、分かることと自由に遊ぶことだから。」 分かることと自由に遊ぶことが正しいのは、いろんな感じをざっと眺めるのが正しいからです。感じることがあるおかげで、見通しが得られるんです。
「見通しsurvey」とここで翻訳した言葉は,ドイツ語の「uebersicht 俯瞰」、「全体を見渡すこと」で、広い水平線を自由に見渡す、という意味です。俯瞰すると、私どもは、Anschauung 「触って見る」という,創造のお母さんを振り返ることが出来ます。Anschauung 「触って見る」のは,聖書の神様のいのちが一巡するのをいのちの家で見る見方です。
いのちの家で聖書の神様のいのちが一巡するのを見る見方は,人間皆兄弟に三昧になることだけが、創造する聖書の神様が宇宙を1つに結び付けることに心を回す見方なんです。しかし、聖書の神様のいのちが一巡するのをいのちの家で見る見方は、科学的な思いにも「聖書の神様のいのちが一巡する」ことがあることに光を当てています。しかしながら、「聖書の神様のいのちが一巡する」と呼ばれることは、もともと、ドイツ語の「Weltanschauung」ですし,語幹の「schauen」は翻訳しずらい言葉です。というのも、「schauen」は,心の中でものを「見る見方」であると同時に,光に意識的に心を向けること(訳注:光を意識して大事にし続けること とも訳せます)だからです。おそらく、「見守られて」一体になることがあまりにも気高いという実感が、一番の身近な思いに成りますから。ここから、これまで述べたことに向かうために、もう一度、アインシュタインの文書を引用しなくてはなりません。
人は自分にピッタリな生き方で,世界(Bild der Welt)はウソのない明るいとこだというイメージを作りたいし,世に勝ちたいものでしょう、世界はウソのない明るいとこだというイメージに世界を変えることで。これは、絵描き、詩人、哲学者がそれぞれのやり方でしていることです。このイメージとそのイメージを作る中に、自分の気持ちを込めるんです。それは、シャローム平和と落ち着きを得るためです。人はささやかな結界を見付け、聖書の神様のいのちがグルグル一巡する人品が育つ体験が出来ます。
人間の中心にあり、能動的に選択し、意識している、効果的で、外に開かれていない自分が一番恐れていること全てを「グルグル」という一言で、2つを1つにするアインシュタインの生き方に心を止めて下さいね。その2つは、中心にあり、自分から関わるし、選び、気付き、力があり、包括的な自分が一番怖がるものです。新しい人が育つ見方が備えている力に関して,アインシュタインが注意しています。
理論物理学が描く世界は、あらゆる可能性の1つです。理論物理学の描く世界は,関係を描く時,厳しく真実を求めます。ですから、物理学者は相手から自分を見なくてはなりません。「しかも、ウソのない出会いを描くんです。ウソのない出会いができるか、私どもは試されているんです。出会いが噛み合うように繰り返し組み立てるのは、ピタリと息を合わせ,言葉通りに出来事になる場がなくてはなりません。「最高のいつくしみ、晴れ晴れとした感じ、確かな手応えがあります、自分を空っぽにできた恵みです」
最後にホルトンの指摘したのは、アインシュタインが「2つ」と遊んで1つになると見通す稀有な信頼です。2つとは、時間と空間、エネルギーと質量、慣性と重力、波と粒子です。アインシュタインは初めは自分の理論を「不変理論」と呼ばれました。この不変理論は、有名になることになっていましたが、しばらくは無名でしたが、相対性理論という繰り返し創造する見通しになるほど有名になりました。
アインシュタインが抱いた「2つ」と遊んで1つになると見通す見通しであり、文化的でもあり政治的でさえある、「2つ」と遊んで1つになると見通す見通しは、別の角度からも見ることが出来ます。2つが1つになることは、理論としては,宇宙に対する新しい見通しの芯です。この職人技がもろ手を挙げて善しとする、イメージも道も分かる者はほとんどいませんでしたが、専門家の言うことを信じるしかない多くの人にとっては、よく分からない見方でした。よく分からない見方は困りもののように見えました。というのも、以前の世の中に対する手堅い見方をひっくり返すように見えたからです。ナチスは、「2つ」と遊んで1つになると見通す見通し相対性理論を、ユダヤ人の見方だとバカにしますし、アインシュタインの考えを悪魔の思いと非難しました。また、ドイツの中にも、アインシュタインの見通しは、あらゆる「古典的」な見方にを超えた大局的な見方だとする、党派にくみしない科学者もいました。ですから、事実としてはありそうもないばかりか、邪悪な思惑があり、実に不愉快と思われていたわけです。この世界でアインシュタインが神様と仲良く神様に従っているみたいな顔をしていることを上手に説明できません(アインシュタインの眼は、この場では、Anschauung 「触って見る」、すなわち、自分も生きるのに人とビッタリ息を合わせて人も生かすモノの見方に溢れていますでしょ)。それはアインシュタインの「2つ」と遊んで1つになると見通す見通し相対性理論がついに証明されたという場から聞こえた声がアインシュタインを復活させたからです。いのちの結界の中にいれば、私が申し上げたいのは,いまここでも、特に、関係が分かる時にも、どなたでも復活することが、「2つ」と遊んで1つになると見通す見通しの中で想像することにあります。フロイトさん自身が、意識がすべてを司っていることに疑問を投げかけたことで、自分が人類に引き起こしたトラウマを、コペルニクスが、地球を宇宙の中心から外したことで人類にもたらしたトラウマや、ダーウィンが被造物の世界で人間は特別でもエリートでもありませんからと言って人類にもたらしたトラウマに擬えるならば、アインシュタインが人類の心の平安を乱したことも、人類にトラウマをもたらした一味にしてもよかったでしょう。
コペルニクスに関する言葉もまた、「クルクル」ですね。フロイトさんに従って、私どもも、科学が紛れもなく示す証拠から言って、太陽中心の見方は、私欲のない世の中の見方だと見做してきました。
本物の創造は、「ウソのない真実」ですから、ウそとゴマカシが当たり前の世の中では、なかなか受け入れられません。ですから、「時を待つ」という辛抱と根気と希望が必要です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます