#生きる中心軸の自分 #キリストを生きる心の習慣 #言葉
#礼拝の場 #毎日礼拝する習慣を守る者 #お互いに人を大切にする礼拝を毎日する習慣 聖書の言葉: ἐπὶ τὴν λυχνίαν,燭台の上 今のニッポン......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
p.344の,ブランクの後。
今朝は,p.345,第4パラグラフ,3行目から。
4 子どもの頃 :あの台本通りに,とあの形
私がこれまで取り出した毎日礼拝の元は2つです。その2つは,本当の自分を創造発達させる中でキッパリと根付かせました。最初の病因を突き止める「病因論」の視点で見る時,繰り返し申し上げておきたいことは,赤ちゃんの時期と大人の人生のハビットの間に単純な因果関係があるということを私が申し上げているわけではない,ということです。それは,大人の様々な毎日礼拝には,特に,子どもが自分の足で自律したいという,目には見えないニーズに応えるという意味がありますから。ご先祖様や聖書の神様は次第に大人になることを求めている,というイメージ(これから見ますけれども)は,子どもに顔を近づけるお母さんの真似をしたり、「正義」の理想を追ったりすることだけじゃない,子どもの頃の悪い良心が外に現れることだけじゃない、ということです。むしろ,人が聖書の神様の予定(説)に従って創造発達するのは,人生のハビットを形作る主たる元(型)のそれぞれが,長い子どもの頃のそれぞれの舞台にありつつ,それぞれの子どもの頃の舞台に根差していることは確かにそうなんですが,その人生のハビットを形作る元(型)が展開すると,繰り返しシャローム英和をより気高く前進させるんです。ヌミノースの元(型)は,分別の毎日礼拝でも繰り返し現れるますが,それは,全ての「気高い相手」や「正義の女神」の気高さにくっ付いている燃え上がる光みたいです。あるいは,ヌミノースの元(型)は,「正義の女神」のイメージを象徴したりイメージしたりする礼拝を具現する人物に付き物の燃え上がる光のようです。ところが,ヌミノースの元型や分別の元型そのものが,たとえ,特定の人生の舞台や特定の人生のハビットを差配するとしても,毎日礼拝を「作り出す」訳じゃないんです。他の元型も2つの元型と一緒に働かなくちゃならんからです。もちろん,この後で「あの台本通りに努める」元型,「完全にやり遂げる」元型、「理想に賭ける」元型も論じます(p.348の図1参照)。
まず,「あの台本通りに努める」元型です。この元形は,私は,「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」が完熟する中に根差している,と信じています。「陽気で楽しい歓びを歓ぶ力」さえあれば,子どもは手に入るものを使って,「台本通りに聖書の神様のいのちが一巡する役割を果たして,2人が一心同体に成る物語を創造し,「最高の結末」ができます。
第2の「分別」の舞台は,親の声が子どもの心に入る所に特色がありますが,他方,この(訳注:第3の)遊びの舞台が(訳注:3~5歳の)子どもに手渡すのは,1つの小さな実感です。その小さな実感の中で,その小さな子どもは,親がやる毎日礼拝から逃げ出して,過去に体験したことをもう一度生きて,正して,創造し直しますし,未来はこういう役割してこういう出来事があります,ということを,全ての毎日礼拝の特色である,自ら願って諦めずに繰り返し,信頼して待つことになります。しかし,この年頃の子どものテーマは,親の役回りを奪ったり,真似したりする場合がとても多いんです。それで,私はこの原理を,腑に落ちない,と名付けたいんです。腑に落ちない気持ちがありますと,遊びの中では,イライラと頑固になりますが,自分を責める人生のハビットとなってしまいます。この自分を責める人生のハビットは,分別の場には付き物だと思うかもしれませんね。でも,自分を責めることは,自分を傷つけることになるに決まっていますでしょ。自分を傷つけることは,実際に自分を傷つける前に,その空想する間もありません。自分を傷つければ,人に知られますし,人に知られれば,罰せられます。
自分を罰するものが人からも罰せられるテーマは大きな悲劇ですが,それは,その「悲劇を見せる場」が大人の《遊び》となるからです。おもちゃの舞台で遊びに夢中になることと,公にされる演劇や聖書の神様を毎日礼拝する中で現れる三昧は,人生の第3舞台に特有の「コンプレックス」に,フロイトさんが悲劇の主人公、エディプスという名を付けたくなったテーマが同じです。エディプス・コンプレックスというこの同じテーマは,高ぶりと責める気持ちがぶつかり合っていることですし,父親にように指図をすることと罰を受けることがぶつかり合うことですし,心から自由になることと聖書の神様に背くことがぶつかり合うことです。「あの台本通りに努める」元型が表に現れることを畏れるという正しい心の習慣は,ヌミノースの元型や分別の元型なしにはあり得ない舞台です。
この遊びの時期を特色づける心の病,遊びの時期から生じる心の病の傾向って,どんなものでしょうか? それは,自分はダメだぁと責めすぎる重荷です。この自分はダメだぁとと責めすぎる重荷がありますと,自分が思っていることも言えず,自分から人に関わることもできません。この心の病が最も劇的に示されているのが,『ハムレット』であるのは偶然ではありません。言葉のあらゆる意味でactor 自分から人に関わることができない悲劇だからです。ハムレットは「遊びの中の遊び(訳注:劇の中の劇,あるいは,最高の歓び)」を工夫して,ダメだぁと自分を抑えつける悪い良心を治療しようとしますし,遊び(訳注:劇,あるいは,最高の歓び)の中で,遊び(訳注:劇,あるいは,最高の歓び)によって,天罰を用意しようとします。でもね,天罰って,天罰以上に悪いものからの救いのように見えますよ。だって,天罰以上に悪いものって,豊かさと権力の中にあるむなしさですもん。それに,トン罰以上に悪いものって,「男の仲からも女の仲からも」歓びを見付けられない病ですから,実際に歓びを見付けられませんでしょ。「男の仲からも女の仲からも」歓びを見付けられない病こそ,歓びもなく,(訳注:中核にある)ぶつかり合いなどない,という人の特色です。
「学びたくなる気持ちを育む力」は毎日礼拝にもう1つの元型(元気)を付け加えます。「最後までやり遂げる」の元型(元気)です。今申し上げた「最後までやり遂げる」元気があれば,こまごました手順ややり方を,「あーせい、こーせい」と口うるさく言わずとも,やっていけます。最後までチャンとやり遂げる知性と気持ちが育つのは,学びたくなる気持ちを育む力がある場合だけです。いや,むしろ,最後までチャンとやり遂げる知性と気持ちが育った後で,子どもは「学びの結界」にやられるんです。(訳注:遊びと仕事,および,自由と義務が,それぞれ)2つに裂ける程度は色々ですが,遊びだったことが,お仕事になり,空想の翼を広げて歓ぶ自由があったことが,細部まで十分に気を配って最後までやり遂げるのが義務になってしまいます。細部まで十分に気を配ることが,1つの仕事をやり遂げて,しかも,「正しく」やり遂げるのに必要なんです。毎日礼拝が,2人の間で聖書の神様のいのちが一巡する結界になるのは,「学びの結界」と呼ばれる場で2人が互いに正直に省みる時だけです。
正直に省みる,ということはどういう意味でしょうか?
私はここに2つの意味があると思います。エリクソンが常に言っていることだからです。
1つは,腑に落ちること,ありのままの自分と真っ直ぐに向き合うこと。
もう1つは,相手に正直に向かい合うこと,振り返ること。
この2つは同じことの裏表だというのが,いつものエリクソンの言葉です。
あなたは,ご自分と身近な子どもさん等を,正直に省みていますでしょうか?
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