「くれない族」、あるいは、≪与える恵み≫「真」はイキイキ、ピチピチ生きること。「真」は、自由であって初めて、人の幸せを作り出す力になるようですね。今日は、p21のL4から。 他人にことは...
先日、正しい翻訳が、正しい信頼、正しい学問になる 5訂版2015-05-12 07:51:13 | エリクソンの発達臨床心理 で取り上げた、エーリッヒ・フロムの『関係に誠実である能力』の翻訳が上掲のブログでした。
「天にも昇る悦び」から生まれる学問・真理が本物の学問・真理であって、それ以外はゴミです、と昨日当ブログで申し上げました。過激でしたか? でも、真実とは、得てして過激なものですね。
「天にも昇る悦び」は、フロムが言う、「真の関係」の中で、「イキイキ、ピチピチと生きる」中から生まれるものであって、「仕方がないのでいやいややらされる気持ち」で暮らしていても、決して生まれませんものね。「仕方がないのでいやいややらされる気持ち」で暮らしている暮らしから生まれるものと言ったら、愚痴くらいでしょう。あなたはどうですか?
この「天にも昇る悦び」こそが、現代の「礼拝」の目印、メルクマール Merkmalなんですね。礼拝と言うと、仏教では「らいはい」と読み、キリスト教では「れいはい」と読ませていることですが、いずれもお堅い感じ、堅苦しさとセットな感じでしょ。形が決まってますから、その形から外れたら「ダメよダメダメ」とダメダシされそうですもんね。でもね、その形も最初は「天にも昇る悦び」を表わすものだったんですよ。「エッッ」って声が聴こえてきそうですが、本当なんですね。最初は、「天にも昇る悦び」を表わした形も、それが、何十回も、何百回も、何千回も、何万回も…(最近、しつこくでゴメンね)繰り返されるうちに、最初の「天にも昇る悦び」が忘れられちゃうんですね。それが習慣の恐ろしいところ。だんだん、「形」ばかりを無思考、無感覚でやるようになるんですね。それが「習慣」の持つ「自動操縦」の一面です。
それと真逆なのは、「自動操縦」と真逆なのが、「真の関係」です。催眠術師じゃない方のエリクソンも、立川のデパートでもない方のフロムも言っている「真の関係」ですね。この「真の関係」、「真の関係」から生まれた「天にも昇る悦び」こそが、現代の「礼拝」です。その現代の「礼拝」は自由形式なんですね。でもいったん決まった自由形式は、決まった形をとりつつ、少しずつ変えていくとベターでしょうね。
その「真の関係」を紹介したかこのブログを再掲しておきますね。
“「神の愉快なパルティザン」。こう言っても、分かる人が少ないかも分かりません。「神の愉快なパルティザン」とは、二十世紀最大の神学者、カール・バルトのニックネーム。
宮田光雄先生の著作に、『キリスト教と笑い』というタイトルの岩波新書があります。その「あとがき」に宮田先生が、西ドイツに留学中、バーゼル大学を訪ねて、カール・バルトの講義に出席した件が出てまいります。カール・バルトはそのとき、「終末論」を扱っていましたから、非常に深刻なテーマを扱っていたことになります。ところが、教室中、バルトが飛ばずユーモアで笑いが絶えず巻き上がる感じだったといいます。たとえて言えば、人気の漫才師の芸を楽しむ会場なのでしょう。次から次へと、笑いが続いていく感じ。深刻なテーマを話しているバルトの講義が、笑いの連続だった。不思議な感じがしませんか?
現代の礼拝について、それは楽しく陽気なもので、悦びにあふれている、と私は申し上げてきました。それはバルトの系譜であり、宮田光雄先生の系譜です。私ども一人びとりが、「神の愉快なパルティザン」になって、現代日本と言う「死に至る病」に侵されている状況を、根源的に回復させるために、≪いまここ≫を楽しく陽気に、しかも悦びに満ちて生きるのです。それが、日本の「死に至る病」のために苦戦している子どもたちが、回復していくためには、なくてはならない先兵なんですね。
「神の愉快なパルティザン」。「人間みな兄弟」と「みんな違って、みんないい」をマジで生活に取り入れて、人々と関わるときに生かして生きる。自分の頭で考えることを基本にして、話し合いを大事にしながら、組織の中で、ドッコイ生きる。必要な時には、ハッキリ物を言う勇気を身につけている。他者感覚を日々磨いているので、弱い立場の人の「声にならない声」にも敏感で、その代弁をしたり、その本人が声に出せるように支援したり。
サウイフモノニ ワタシハナリタイ ”
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