山本義隆さん。団塊の世代の人には、忘れられない人でしょう。しかし、それ以降の人は、あまり知らないかもわかりません。今日の朝日新聞の書評欄に、山本義隆さんの著書『原子・原子核・原子力』の書評がありました。小さな記事ですから、見逃した方もいるでしょう。
私も、一度だけ、ちらっと見かけたことがあります。それは今から17年前、立川でした。その日は、私の信仰の恩師、西村秀夫先生の奥さんの董子さんを「送る会」、つまり、告別式が立川でありました。そこに山本義隆さんもやってきたんですね。
董子さんは、元小学校の先生。「聖書を学ぶ会」で讃美歌を歌うときには、主旋律ではなくて、いつも副旋律を歌って、ハーモニーをつける人でした。でも、西村先生が「理想的」な話をするときには、董子さんは、「理想」通りにはいかない西村先生をユーマラスに語るような人でしたね。
その董子さん、1969年東大安田講堂がバリケード封鎖されている時に、「学生の話を聴きたい」ということで、バリケードの中に入り、学生の話を聴いてきたと、西村先生が「聖書を学ぶ会」の中で紹介してくれました。そして、バリケードから出て来た時には、「今までとは、景色が違って見えた」、董子さんはそう語っていた、と西村先生が付け加えました。その時に、董子さんをバリケードの中に案内し、話をした一人が、東大全共闘議長だった、山本義隆さん。
山本義隆さんは、東大で素粒子を学び、将来を嘱望されていたらしい。しかし、その後は駿台予備学校で物理学の専任講師をしたそうです。早稲田で学生運動をしていた阿木幸男さんは、「まともな就職はできない」から、「河合塾で教えることになった」と言っていました。事情は似ていたのかもしれません。私も駿台にはずいぶん厄介になりしたが、文系でしたから、そこではニアミス。しかし、話によれば、大学で物理学を講じるように言ってくれた人がいたとか。しかし、山本義隆さんはそれを潔しとはしなかったらしい。その後山本義隆さんは、予備校講師をしながら、『磁力と重力の発見』全3巻、おそらく、後世に残る本でしょう、を書き上げた。その書評を、やはり朝日新聞で読んで、友人のツテで大学図書館から本を借り、研究室もなしに研究をコツコツと続けられた、と知りました。その執念とも、信念とも、言える生きる技法に、頭が下がる思いがしましたね。
政府広報になっている、原子力村の御用学者とは対極的な生き方をしてきた山本義隆さん。「浴びる放射性がこれよりも少なければ安全である、という意味の『閾値』は存在しない」と、放射線は少し浴びただけでも危険なものであることを、ハッキリと、パレーシアに言っている由。
私どもも、山本義隆さんのような生きる技法から学ぶ者でありたいですね。
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