エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#第3の眼 #人間らしさの源 #大沢真幸さん #日常生活の中の超越

2019-01-30 06:59:07 | エリクソンの発達臨床心理

 
#私たち #神様との関係 は #お互いとの関係 と #同じ それから #バラバラなニッポン
 聖書の言葉: 大竹しのぶさんと、シモーヌ・ベェイユの間    叡智の源   考えることは、本を読み直すことに似ている  映画「ハンナ・アーレント」。映画館をい......
 

 

 Toys and Reasons 『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.126の,3行目途中から。その前もご一緒に。





壁に掛かった様々な夢




 私は拙著を,子どもの積み木遊びから始めて,遊びの理論を振り返り,私の最初の本でお示ししたことを改めるつもりがない,というところまで来ましたね。つまり,最初の本でお示ししたこととは,おもちゃの舞台で「陽気に楽しむ」ことは,枠付けされた「小宇宙」に,諍い合う様々な人を投影しがちな人の心をハッキリと映し出す唯一のひな型だ,ということです。諍い合う様々な人を投影することは,人生の一瞬を物語にするものです。子どもの遊びの中に,あの聖書の神様が創造するというヴィジョンがあることは,見れば分かります。あの聖書の神様が創造するというヴィジョンは,枠付けされた(訳注:自由で賢慮が働く)聖域も1つ,後で使うことになります。そこは「対等な関係の場」(対等な関係が外側に広まるのは,ますます陽気で楽しく,ますます晴れ晴れと,互いに分かり合うために,2人が一心同体になる聖書の神様の場が,広まることです)ですし,1つの舞台,あるいは,自分自身になる目的に向かう道で,自分が主人公であることを取り戻すための青写真です。自分自身になるのは,聖書の神様が一巡する命が展開する関係の中で,上手に自分ならではを育てることによって,実現するものです。しかし,私がまたここでキッパリと指摘しなくてはならない,人を落ち込ませる類の,恐れ,思い煩い,ガタガタいう震えは,些細なものでも,バカでっかいものでも,生きている実感を押し殺す時,心から自由になる希望が死ぬのが,目に見える敵,目に見えざる敵によって課せられた,悲しき自分の定めだと人は誤解してしまいます。しかし,私が申し上げてきたことは,敵を作らない場合でも,人は,自分がなる予定の新しい人になる自由がほしくて,勝手気ままをする余地を作る壁を作り出すために,敵をでっちあげるものだ,ということですね。

 自分が生きている実感を創造し育てる視点は,毎日刻々と礼拝することで,完成します。それは,この本の第2部でお披露目したとおりです。刻々と続く毎日礼拝は,最もささやかな私的なやり取りから,文化的行事で一体になることまで,さまざまです。すべては,「これが,私どもの見方ですし,話し方ですし,立ち居振る舞いです。それは《人間らしい心から優しいやり方》です」,となりますから。ヴィジョンの基盤となるのは 聖書の神様の命が一巡する場ですし,その聖書の神様の命が一巡する場は,細かいところまで真実なのに,同時に,とても良い創造の全体像とも,聖書の神様の御心にもビッタリと一致していますから,バラバラになった人間を,互いに大切にする関わりを始める中で1つの人類にします。
 このような聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることをお示ししょう。まずは,私にとって1番身近な事,すなわち,芸術と精神分析から,始めることにしましょう。聖書の神様の命が一巡するヴィジョンが至る所にあることが分かれば,ヴィジョンという見通しを色々試してみる事を一緒に始めることが出来ます。最近,ヘルムート・ウォールがサンフランシスコの「視点」に論文を載せましたね。この論文の中で,ウォルフは,ルネッサンスの絵画の本質的な視点と,ルネッサンスの絵画の視点が広めたキリストの信頼を結び付けましたし,見透しもキリストの信頼も,人が希望を持ちたいと願う最深欲求とも,結び付けました。 

      「五感を総動員した感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様の様々な御心は、『うまくできてるね』,という視点で,お祈りにする雛形になります。そのヴィジョンは,聖書の神様を信頼する根源的信頼を繰り返し肯定してくれます。おそらく,聖書の神様の御心は,『うまくできてるね』,と見ることは,視点が繰り返しプレゼント出来る,『人と人をくっ付けて,力を合わせるようになりたい』と求める最深欲求に繋がる判断の物差しです。結局,感性豊かなヴィジョンは,聖書の神様が創造する全体像が,たった1つの聖書の神様のご計画であるし,たった1つの,意味や価値を判断する物差しになります。聖書の神様が創造する全体像は,『うまくできてるね』という物の見方のおかげで,『なるほど本当だね』という実感が湧いて来ますから。」
      デ・ヤング美術館で,16世紀初期のフランドルの画家の手になるヴァン・ボーグの「受胎告知」を見ました。この絵は、描いた画家の名も分からないし,ウソとゴマカシのない一体感がある中で,人間が陽気で楽しく生きるヴィジョンが持つ,たくさんある根源的な要素を,いまここで,1つに纏めているのが分かりました。陽気に楽しく生きるヴィジョンは,眼で見たことから生まれ,最も不動な生き方を根源的に支える聖書の神様の心からの優しさを片時も忘れずに思い出すこと,まで,至ります。その「永遠の見通し」とは,天使ガブリエルから誕生を告げられた子が,子どもの頃が約束する,あの聖書の神様がまします場を,人間にいつも必ず分け与えて救い出す,「御子キリスト」になる,と見通すことなんです。それから,聖母マリアは,選ばれし母,になります。天使が今ここにいて,見守ってくれていることに気付いて,聖母マリアは,開いていた聖書を下に置きますが,学んでいた聖書のページ(聖書のページは,枠付けされた視野になりますね)は,「輝いてい」のが分かりますでしょ。この受胎告知の絵が示しているのは,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間という,聖書のテーマでしょう。光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間とは,モーセでしょ。古い約束をの知らせた預言者であったモーセが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったのは,新しい約束を知らせる預言者になられた御子キリストが光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間であったことと同じなんでしょうか? しかし,聖母マリアが陰になったのは,聖書の神様からの命令を携えたスピリットを眼の当たりにしているからですが,そのスピリットが伝えた言葉は,「お腹の子は,『聖書の神様の独り子キリスト』です。『新しい人』の守り手ですからね」ということです。それに,聖書の神様がまします場では,「聖なるスピリット(聖霊)」,すなわち,促し手は,キラキラと輝いている,その温もりが身に沁みてありがたい,一筋の光に乗って,下に置かれているように見えます。

 この受胎告知の舞台は,その前景の中では,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間といった聖書のテーマなどすべてが展開しますが,背景の中では,2つの場に開かれた2つのドアの枠がありますね。1つは,聖母マリアの背後にあって,マリヤのベッドが見えます。もう1つは,さらに2つの枠組みに私どもの目を誘います。聖書の神様がまします場に開かれた窓(魂の片目)と,もう1つは,下に置かれた三位一体の聖書の神様を示す祭壇画と,その聖書の神様の命が一巡することを物語る羊皮紙の聖書に開かれた窓(魂のもう一つの片目)です。その祭壇画があまりにも輝いているので,もう1つの窓(1つの「魂の目」)があるみたいです。この祭壇画も,また,光るスピリットを目の当たりにして,膝を付いて光の下に座り光を仰ぎ見る人間を示していますから,思い出すのは,東に顔を向けることは,夜の闇も必ず夜明けには明ける世の中で,「昇る光に魅せられ仰ぎ見るようにされている」という意味だ,ということでしたね。

 子どもたちが遊んでいることを読み解くことは,その子どもの遊びに心から響くヴィジョンを読み解くことに加えて,人間の意識が,端っこに追いやられるのではなしに,人間が発達するのに一番大事なことであることこそが,唯一の人の務めであることを示しているのならば,聖母マリアの子宮こそ,宇宙のど真ん中にあるものだ,とハッキリと認めなくてはなりませんね。子どもを身ごもった女性と生まれたばかりの全ての子どもが,宇宙のど真ん中にいるみたいに。新しい眼が,成長する場に注がれ,新しい顔が大切にされ,新しい名が,新しく生まれた「私が生きている実感」と,「人間の条件」によって裏切られることは1つもない(のに,それを,ダァレも知りません),唯一の恵みが漲っている新しい人の目印になります

 このデ・ヤング美術館の受胎告知の絵が,聖書の神様が約束された唯一の創造の初めを示している,心響かせる人間に成長するという見方を共にするために,あるいは,「聖書の神様の創造にピッタリと」遊びを解き明かす時に,私どもが大切に考えるあらゆる判断基準をハッキリと認めるためには,壁や教会や美術館にかかった「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます,というメッセージが聖書に神様から来ること」の1枚の絵を囲っている同様の絵も,仲間に入れなくてはなりませんね。「人の子」となる子どもが,祝福を示す身振りの中で,もろ手を掲げている絵もありますね。キリストが最後の叫びを叫び,十字架に爪を立て,ゾッとするほど恐ろしいゴルゴタの夜を描いた絵もあります。「神の子」が天国で救われ選ばれしもの達を,心からの優しさで迎え入れている絵を示す人もいれば,同じ「神の子」が,地獄行きを言われた者達を,力強く見捨てる絵の方を示す者もいますからね。いばらの花冠を被った者たちのひとりを描いた者もいます。そのいばらの花冠を被された人は,歴史を通して大工の倅が十字架に縛り付けられた,と言われました。しかも,そこには,日常生活を礼拝にする輝きがありましたね。別の絵の中では,私どもの目の前に,1つの諍いの場が広がっているのが見えますでしょ。その諍いの場は,ラテン語で「この徴の中で」浄化されますが,そこには,傷つき,死んでいく苦悩の中で,倒れた異教徒たちが積み上げられているのですが。

 このように,キリストのおられる様々な場の全体像だけが,あの聖書の神様が心からの優しさから創造された創造を,預言された未来と結びつけながら,「ずっと変わらない見通し」をギフトとしてプレゼントしてくれます。その「ずっと変わらない見通し」のおかげで,生死と人生の謎とに,漲る意味を与えられます生きている温もりに満ちた歓びが漲る意味を教えられて不動にされると,人が心響く新しい人に成長すると見る視点があれば,ずっと心が新鮮にされる毎日に2人がいつも共に至る一心同体になれるだけではなく,2人が一心同体になる様々な術,日々の様々な礼拝,様々な優先順位,様々な諍いの場ができて,≪生きている実感≫が,他の死すべき人の≪生きている実感≫とが,唯一の聖書の神様の独り子のキリストの光≪生きている実感≫がど真ん中を橋渡ししてくださいますから,一心同体になると信頼する見方のもとになります。唯一の神様が≪生きている≫ということが,「なるほどホントだね」と確かめられる唯一の存在なんですから。キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ,生まれてすぐにお母さんと一心同体になれずに来た悲しき運命生きているのに自分が死んでいることから,救われたと感じるのでしょうか? キリストのおかげで,2人が一心同体になれるからこそ, 選ばれし少数だけが救われて,ほかの大多数全ては選びから漏れて,自分が滅んでいる,「最後の審判」の判断に,正面から向き合えます。最後の審判で,われわれ人間というものは,自分の良さと永遠の命を,生活の中で,お零れ頂戴で得ようとするものです。また,見落としてならないのは,一番見事なヴィジョンは,不動にされた復活人生(聖書を学びながら生きる者の集会みたいに)に根差すだろうという事実です。不動にされた復活人生は,復活に必要な様々な欲求を生活の中で礼拝にして,人間は,独りぼっちで,必ず死ぬことを大切にして暮らすようになるものです。と言いますのも,自分の身体は必ず死ぬ,ということを心から受け入れるかどうかにかかわらず,私どもの魂は,いつも独りぼっちでいることと,いつも相手にされずにホッタラカシになることを,ことのほか恐れているんです(自分を亡くすことを恐れることに対して,一つの優れた標語を見つけましたよ。それは,この「受胎告知」の絵が描かれた時代に首をはなられた者の墓標の文字です。「私はもう若くない,しかし,私はまだ若い。私は世の中を見た。しかし,私は省みられることもなし」)。

 あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)があれば,心乱されることもなければ,諍いもありませんから。あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)の中には,光とスピリットのおかげで,その場と聖書の話し言葉が一体となり,お先真っ暗の中で,スピリットが死んでいることを繰り返しひどく恐れ,粗末に育てられ,生きている意味も分からずにいることを繰り返しひどく恐れていたことの中で,聖書の神様が信頼してくださっていることが気付かされます。でもね,忘れずにいたいことは,聖書の神様の力を確信するためには,あの「新しいスピリットであるキリストがあなたの中に生まれます」(受胎告知)を描いた絵描きが,心魅せられるものを心から歓んで生きることを,生きる習慣にする生き方が,聖書の神様が命じる命令だと弁えていた,ということですね。あの絵描きは,聖書の神様の力を確信するためには,心見せられたものを心から喜んで生きることを,人生の習慣にする生き方こそが,聖書の神様が命じる命令だと弁えることができて初めて。その絵描きの作品が,観た者の最深欲求に心響くわけですし,不思議な力のある聖書の神様に忠実に従いながら,聖書の神様を信頼する信頼を確かにもできるんでしょ。

 心魅せられるものを心から歓んで生きることを,生きる習慣にする生き方が,聖書の神様が命じる命令だということを心に刻んで忘れないことが,今ここを生きる要です。他の「様々な枠組み」や空間にも触れましょう。まったく異質に思えるものもあるかもしれませんが。枠に入った一枚の絵が,夢のある,あるいは,空間の前舞台を伴って,様々な意味を分かち合っていると,言ってもいいでしょうね。しかし,シアター・劇場やセオリー・理論という言葉は,実験の上で同じ源がありますが,言葉の上でも,なおさら共通する語源があります。この2つの言葉は,共通して,「見通せる あるいは,お見通しにされる場が,心魅せられるものを信頼する信頼をもたらす」という意味です。

 


 むかしは,「おテントウさまが見ているよ」という言葉がありましたね。

 自分しか見ていないように見える世界は,実は,深層では,聖書の神様がお見通し。その第3の眼を意識して大切にすることが,正義と倫理を大切にする人間らしさの源です。

 第3の眼こそ,日常生活の中の超越です。

 大沢真幸(まさち)さんも,そのことを知っていますね。

 

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