今宵の聖書の言葉はπεριπατῶ,ペリパトー,歩き回る,1つの生き方を生きる,です。この言葉は,περί周りを+πατῶ歩く の合成語,周りを歩く,がもともとの意味ですね。
この言葉は,『新約聖書』のパウロさんの一番古い手紙「ガラテア人への手紙」第5章10節に出てきますね。
「16わたしがいいたいのは、霊によってお歩きならば肉の欲をとげないですむということです」
カトリック神父の井上洋治さんは,この箇所を
「風に己を任せ切って,お生きなさい」
「おみ風様に己を任せ切って,お生きなさい」
と訳しておいでです。
風ですから,動いている空気のことですね。「霊によって」と前田護郎先生が訳しているのは,プネウマの副詞です。日本語で「風まかせ」と言ったら,「自由気ままに」,あるいは,「身勝手に」と言う感じかもしれませんね。でも,プネウマの副詞は,「霊によって」は,「自由気ままに」,でも,「身勝手に」でもありません。
宮沢賢治風に言えば,風には「透明な力」があります。そして,何よりも「かすかな語りかけ」があります。したがって,その「かすかな語りかけ」に心の耳を澄ませて,聴き従う感じと,自力に頼るのではなくて,「透明な力」を信頼する感じが,必ずありますね。
外から見ていたら,「霊によって」と「身勝手に」の区別は難しいかもしれませんね。とくに,体験的に,その人格的な関わりを知らない場合は,外から見ていただけでは,2つの区別は,分からないのが普通です。
でも,ご当人はハッキリ違いが分かります。自力だったら,調子が良ければいいですけれども,調子が悪くなれば,不安でしょ。「透明な力」に信頼している場合は,なんとなく,ウキウキした気分,晴れ晴れした気分がありますからね。矢内原先生は,生真面目ですから,厳粛さを強調しますけれども,それだけじゃないですね。もちろん,一方で厳粛さが確かにあります。その点で,矢内原忠雄先生のおっしゃることは正しい。でも,それと同時に,ウキウキと晴れ晴れもありますよね。ですから,冷汗三斗の気分じゃなくて,胆大心小(たんだいしんしょう)に生きることになります。
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