この前の日曜日の朝、筑豊の伝道者、犬養光弘さんが46年もの間、筑豊でも最も貧しい、生活保護世帯が8割という、福吉で伝道してきた、その軌跡を紹介する「筑豊に「隣人」ありて」が、「こころの時代」で再放送されました。何度見ても素敵な番組だと思いましたね。
その中で、犬養さんが自分の「先生」として紹介されていたのが、無教会伝道者の高橋三郎先生でした。
高橋三郎先生と言ったら、晩年は交通事故のために脊椎損傷になったあとも、聖書を自分でめくることさえできないのに、実に力強い、確信に満ちたメッセージを語る方でした。毎週は聖書講義はできませんでしたから、数か月に一度、渋谷の金属会館の集会で聖書講義をされました。
ある時、犬養さんの友人で、クンちゃん、ムッちゃんという青年が、高橋集会に出たいと言いだしたことを話す件が、その番組に出てきます。犬養さんが、高橋三郎先生の話をよくするので、クンちゃん、ムッちゃんも、先生の話が聴きたくなったらしい。でも、2人はベビースモーカーですし、正座もあまり得意じゃぁなかったらしい。それで、東京の(当時は柿の木坂でやっていた)高橋集会に参加するため、正座の練習をしたり、禁煙をしたりしていたらしい。
ところが、東京に出発する数日前に、高橋先生から、犬養さんに電話があり、クンちゃんとムッちゃんに、「(2人が集会に)来ることを断ってほしい」と言われたと言います。これだけ読むと、高橋という人は、実に不遜で失礼千万だ、と勘違いする人が、あるいは、おられるかもしれません。これを話す犬養さんは、涙を流していましたから、その涙も、悔し涙だろうと、また、勘違いするかもしれません。
でも、そうじゃぁないんですね。犬養さんは、感激して涙を流していたんですね。なんで?
この時、高橋三郎先生は旧約聖書の「レビ記」の話をしていたそうです。「レビ記」と言ったら、生活習慣に関わる細々とした律法、「ねばならないこと」がたくさん書いてあるところです。かなり読みづらいところです。六法全書を読むことを想像してください。あれを面白おかしく読むのは、相当大変でしょ。高橋先生は、もちろん、その難しい「レビ記」をクンちゃん、ムッちゃんにも分かるように準備したけれども、それがどうやってもできない、と考えられた。「それでも、『(聴く人が分からなくたって)話せばいい』と考える牧師も多い」と犬養さんは言います。でも高橋三郎先生は、そうは考えなかった。何故でしょうか?
それはね、わざわざ九州から東京まで、自分が語る聖書の話を聴きに来る人が、分からないような話しかできないのに、来てもらうのは、クンちゃんとムッちゃんとの関係が真実ではなくなる、と高橋三郎先生は感じたからに、間違いありません。それは、高橋三郎先生と神様との関係が、ウソとゴマカシのない真実な関係であるように、クンちゃんとムッちゃんとの関係も、真実な関係でありたい、と願っていたからに他なりません。ですから、その高橋三郎先生の「真」を感じて、犬養さんは、むせび泣きを泣いたわけですね。
私もここで涙が自然に流れましたよ。そして、思いました。子どもとの関係で、果たして高橋三郎先生先生ほど「真」を尽くしているのか?
あなたは、子どもとの関係で、この高橋三郎先生のような「真」を尽くしておられますか?
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